2026年8月25日火曜日

フェアプレイ

 高校野球と言えばフェアプレイ、フェアプレイと言えば高校野球、そう言われて当然だと一般に信じられているし、関係者もそう自認している筈だ。しかし、実際はそうでもないらしい。先の夏の甲子園のある試合で、私は目を疑い、首を傾げた。

二塁にランナーがいる状況で、キャッチャーが絶好の牽制球を投げ、二塁手がタッチしたかに見えた。しかし判定はセーフ。二塁手はすぐさまベンチにビデオ判定をアピールし、監督がそれに応えた。ビデオを見ると明らかにタッチしている。審判の目からは死角に入っていたのだろうが、当の選手、ランナーは自分がタッチされた事ははっきり分かった筈だ。それ程明確な、グラブが折れ曲がる程の接触だった。

こんな場合、自分に有利な誤審を自分から訂正するというテニスでは当たり前の習慣が野球にはないらしい。もし、あの時二塁ランナーが自発的にアウトを認め、ビデオ判定するまでもありませんよと自己申告したら、チームメイトからは裏切り者扱いされたのだろうか。

ビデオ判定は当事者が判断できない場合(例えば内野ゴロで一塁に走り込んだ時、ベースを踏むのが早いか、ボールがミットに入るのが早いかなど)に意味があるのであって、当事者が真相を知っている場合はたとえ自分に不利であっても自己申告するのがフェアプレイだと思うのだが。実際テニスでは億単位の賞金が掛かっている試合でもそれが行われている。

ある人に聞いたら、高校野球ではタッチをしていない場合でも大声で「タッチ」と叫び、あたかもタッチしたかのような印象を醸し出すよう指導をしているらしい。地方大会ではビデオ判定の導入も少ないらしいからそんな時有効なのだろう。テニス愛好家の私からはちょっと信じられないような話だった。

2026年8月18日火曜日

自然への敬意

 熊本の被災地では酷暑の中、未だに水も電気もない生活を余儀なくされている人達がいる。そのご苦労は如何ばかりかとお察しするが、しかし良く考えてみるとつい百年前迄は殆ど全ての人がそういう水道も電気もない状態で日常生活を送っていた事に驚く。

私が小学生だった頃母が良く言っていた事だが、人生で一番嬉しかったのは家に水道がついた時だった、と。一番上の兄が徴兵に取られ、残された三姉妹の末娘として、彼女の仕事は毎朝井戸から水を汲んで台所にある水瓶を満たす事だった。その仕事から解放された事が余程嬉しかったのだろう。私が物心ついた頃には流石に殆どの家に水道は完備していたが、電気は電燈とラジオしか用途がなかった。扇風機はおろか、熱源としての電気利用もなかった。ある時、父がニクロム線の電熱器を買ってきたが、イカや海苔をあぶる程度なら兎も角、とても湯を沸かせる力はなくて、子供心に馬鹿にした記憶がある。

水は井戸から汲み、熱源は薪や炭、そういう生活をつい最近まで我々は送って来たのだ。なのに今では水道が止まった、電気が来ないと言って大騒ぎをする。科学技術は人間を弱くしてしまったのだろうか。

全国の自治体で水道管の経年劣化が進み、災害時の水の確保が問題になっている。法定耐用年数を過ぎた管路の長さは25.4%に上るとか。そんな中、井戸が見直されているらしい。費用も工期も掛らず万が一に備える事が出来る。大変に結構な事ではないか。井戸水は夏は冷たく、酷暑対策にも少しは役に立つだろう。井戸水の恩恵に与る事により、人間が自然の恵みの有難さや、自然に対する敬意を再確認するきっかけになれば良い。

昨今の環境保護だとか、地球にやさしくだとか、人間の思い上がりに思えて仕方ない。

2026年8月11日火曜日

信賞必罰

 熊本地震で被災された方々には心よりお見舞いを申し上げたい。ニュースを聞くと、避難所に行きたいが空き巣被害が心配で仕方なく車中泊を続けている人がいるとか。こんな時に空き巣を狙う輩がいるとは。まさか同じ地方の人がそんな事をする筈もないから、遠くからわざわざやって来てそんな悪事をするのだろう。そんな奴には必ず天罰が下って欲しいと願わずにはいられない。陰徳陽報で、陰徳が報われないのには多少我慢できても、悪事に天罰が下らない事には我慢がならない。

こんな心情は神道に特有なのだろうか。神社の境内にある絵馬にしろ、拝殿で柏手を打った時にしろ、願い事は神道と極めて親和性が高い。様々な神様がこの世のシナリオを書いていて、どうかそれが我々の望むストーリーになりますようにとお願いしているかのようだ。

仏教はちょっと違う。仏様の前で唱える「南無阿弥陀仏」とか「南無妙法蓮華経」とかは「阿弥陀仏に帰依します」のように、自分の意思表明をしている。「貴方を信じて全てをお任せします」と言っている。言外には「だから良い事をして下さいね」とお願いしているかも知れないが、そのお願いも「浄土に生まれ変わらせて下さい」のように、現世とは違うような気がする。

キリスト教ではどうか。ある人に「教会で祈る、って言うけど、祈るって何?」と聞いてみたら「ううん、、、感謝してる、かな」との答えが返ってきた。確かに西部劇などを見ると、家族で夕食を囲んだ時など、感謝の言葉を述べているシーンがよくある。こちらも神様に何かお願い事をしている訳ではなさそうだ。尤も一神教の神様はもの凄く強大だから、こちらの願い事などに耳を貸してはくれないだろうが。

でも、神道の徒である私は信賞必罰を願わずにはいられないのだ。

2026年8月4日火曜日

陰徳陽報

 人知れず善行を積めば(陰徳)、必ず良い報いが目に見えて現れる(陽報)という。もし本当にそうなら、この世はどれだけ住み良いものだろう、それなりに高い確率で実現するとしても、残念ながら「陰徳陽報」は決して100%ではないような気がする。時には陰徳を積んだ人が裏切られる事もあったりして、そんな時私は神の存在を疑ったりしてしまう。

トルストイの散歩道、という本がある。全5巻で市立図書館では児童書の棚にあった。敬虔なキリスト教徒であったトルストイが願いを込めてその理想を描いたのであろう、「陰徳陽報」を絵にかいたような話が載っている。聖地巡礼を思い立ってエルサレムを目指していた人が旅の途中で困っている人に出会い、なけなしの路銀をはたいてその人を助け、それから先の旅を諦めてしまう。勿論、その後その人には沢山の幸福が待っている。まさに陰徳陽報の世界。

だが、もし同じ事が我が身に起きたら私はどうするだろう。自分のやりたい事を諦めてまで、見ず知らずの人を助ける事が出来るだろうか。私には無理だ。自分のやりたい事を諦めずに済む範囲内で出来る事ならともかく。疲れ切って帰宅する際、混雑する電車で運良く座れた時に前に立つ弱弱しいおばあさんに席を譲る事すら出来ない自分なのだから。

陰徳陽報を少し小振りにしたのが人情ではないだろうか。困っている時、人情に助けられると非常に嬉しい。陰徳にしろ人情にしろ受動側にはとてもありがたいが、主動側に立つのは結構難しい。

若者が田舎を捨て、都会を目指すのは雇用機会の多寡もあろうが、この人情の難しさにも一因があるような気がする。人情の機微よりもディールの割り切ったデジタル感覚の方を知らず知らずの内に若者は選んでいるのである。