2025年8月26日火曜日

体育会系

 甲子園の準々決勝、県立岐阜商業対横浜戦を見始めたのは丁度延長10回、3点差を追う県岐阜商が1アウト満塁のチャンスを迎えた時だった。そこから劇的なサヨナラ勝ちまでまさに高校野球ならではのハラハラドキドキを楽しませて貰った。

感動ものだったのは試合の内容に加え後で知った事だが、県岐阜商には生まれつき左手に障害を持つ選手がいたとか。しかもその選手は健常者となんら変わる事なく美技でチームの勝利に貢献していたというから、心から拍手を送った。

県岐阜商はそうじゃないと勝手に想像しているのだが、いわゆる野球の名門校には広陵高校のようにシゴキが当り前の体育会系が多いらしい。イチロー選手がいた愛工大名電もご多分に洩れずそうだったらしく、彼がアメリカの野球殿堂入りした際の記者会見で野球人生における一番の思い出は何かと聞かれ、地獄のような高校の寮生活だと答えたそうだ。シゴキに加え、1年生は食事の際に醤油を使ってはいけないとか、風呂もシャワーも使えないとか。もっとも彼はそれを肯定的にとらえ、それがなかったら社会人になって壁を乗り越えられなかっただろうと言っている。

地獄のような辛さを経験する事でその後の人生の艱難辛苦を乗り越える力がつくからと言って、上級生による下級生のシゴキが正当化されるものなのだろうか。私には屁理屈に思えて仕方がない。シゴキに教育的な意味を持たせるのであれば、少なくとも事前にその方針を伝えるべきであろう。そしてまたそのシゴキが許容範囲を超えた時にはいつでも別の選択肢を選べる自由があるべきだろう。地獄に入るのも耐えるのも、全て本人の納得づくなら文句はない。

そうした民主的な運営がなされて、過度な体育会系が自然淘汰され、県岐阜商のような学校が増えて欲しい。

2025年8月19日火曜日

広陵高校問題

 広陵高校が甲子園を辞退した問題、どうも良く分からない。

分からないのはこの事件に対する報道機関の姿勢である。事件の概要は「野球部の寮で下級生の規則違反に端を発した上級生による暴力事件が発生し、一旦は高野連の裁定が下って一件落着したが、SNSでの騒動が激化したためそれを鎮静化させるべく、高校が自主的に自らを罰する意味で辞退を決めた」というものだった。

不思議の一つは、下級生の規則違反がカップラーメンを食べる事だったと実に具体的なのに、それに対して上級生が懲罰の意味で加えた暴行の内容が全く具体性を欠いている事だ。某全国紙には「複数の2年生部員(当時)が殴るなどの暴力行為を行った」としか書いてない。

この問題の前半部分を寮内の違反行為とそれに対する懲罰の問題と考えると、その両方のバランスが気になる。もし下級生が大麻を吸っているのが見つかって、それを罰するべく上級生が平手打ちしたというケースだったらどうか。カップラーメンを食べた事に対する懲罰だと、どんな微細な暴力でも釣り合いが取れないから深く追求しなかったのか。

新聞に書いてないので、仕方なくネットで検索すると、被害者側からの訴えによればかなりひどい事が行われたようだ。もしそれが事実ならどうして高野連はあんな甘い裁定を下したのか。問題の後半部分は寮内で起きた事の事実認定と高野連の裁定の妥当性の問題になる。

被害者家族にしてみれば、事実認定と裁定の過程に納得がいかないからSNSで訴えたくもなるのだろう。マスコミは学校の発表だけを記事にするのではなく、関係者への取材を通して真相を探る等の努力をすべきだろう。

新聞には「今後SNS対策が急務だ」などとピンボケのコメントが載っている。自身による真相究明の姿勢こそ急務だろう。

2025年8月5日火曜日

読書

 高校生の孫がいる。先日「おじいちゃん、夏目漱石の『こゝろ』持ってる?」と聞かれたので「勿論あるよ」と答え、貸してやった時は嬉しかった。高校の夏休みの宿題なのだろう。以前に同じ孫から小川洋子の「博士の愛した数式」があったら貸してくれ、と言われた時は持ち合わせがなくて残念だった。

読み終わって感銘を受け特に印象に残った本は本棚の目立つ場所に並べて、いつか子供達が手に取ってくれたら良いなあと長年思って来たが、悲しく寂しい事にあまり興味を持ってくれなかった。漫画は良く読むから横山光輝の「史記」とか手塚治虫の「火の鳥」や「ブッダ」などに眼を向けてくれても良さそうなものだと思うのだが、時代が違うと興味の向きも異なるのだろうか。

そう言えば、ちばてつやの「キャプテン」や「プレイボール」は貪るように読んでくれたのに。ちばてつやの次は矢張手塚治虫ではなく「スラムダンク」が来るのが自然か。一時息子が東野圭吾に凝っていた時も、結城昌治の「ゴメスの名はゴメス」とか井沢元彦の「暗鬼」にどうして手を伸ばしてくれないかといらついたものだ。

嗜好性や考え方・感じ方というものは人によって千差万別で自分が面白いと思ったからといって他の人にもそうかというと全くそんな事はない。浄土真宗への信心の深い友人がいたので、彼に倉田百三の「出家とその弟子」を薦めたがあまり心に届かなかったようだ。私は中学生の頃初めて読んで感動した部分を手書きでノートに書き写したりした。以来、最低でも三度は読み直した程なのだが。

さて、「こゝろ」を読み終わって、どんな感想を持つか楽しみだ。感想を聞き終わったら鯨統一郎の「文豪たちの怪しい宴」を渡して、こんな読み方もあるよと紹介してやろうと思う。