人知れず善行を積めば(陰徳)、必ず良い報いが目に見えて現れる(陽報)という。もし本当にそうなら、この世はどれだけ住み良いものだろう、それなりに高い確率で実現するとしても、残念ながら「陰徳陽報」は決して100%ではないような気がする。時には陰徳を積んだ人が裏切られる事もあったりして、そんな時私は神の存在を疑ったりしてしまう。
トルストイの散歩道、という本がある。全5巻で市立図書館では児童書の棚にあった。敬虔なキリスト教徒であったトルストイが願いを込めてその理想を描いたのであろう、「陰徳陽報」を絵にかいたような話が載っている。聖地巡礼を思い立ってエルサレムを目指していた人が旅の途中で困っている人に出会い、なけなしの路銀をはたいてその人を助け、それから先の旅を諦めてしまう。勿論、その後その人には沢山の幸福が待っている。まさに陰徳陽報の世界。
だが、もし同じ事が我が身に起きたら私はどうするだろう。自分のやりたい事を諦めてまで、見ず知らずの人を助ける事が出来るだろうか。私には無理だ。自分のやりたい事を諦めずに済む範囲内で出来る事ならともかく。疲れ切って帰宅する際、混雑する電車で運良く座れた時に前に立つ弱弱しいおばあさんに席を譲る事すら出来ない自分なのだから。
陰徳陽報を少し小振りにしたのが人情ではないだろうか。困っている時、人情に助けられると非常に嬉しい。陰徳にしろ人情にしろ受動側にはとてもありがたいが、主動側に立つのは結構難しい。
若者が田舎を捨て、都会を目指すのは雇用機会の多寡もあろうが、この人情の難しさにも一因があるような気がする。人情の機微よりもディールの割り切ったデジタル感覚の方を知らず知らずの内に若者は選んでいるのである。