2026年7月28日火曜日

本能寺は変

 大河ドラマで「本能寺の変」を見た。でも今回のはちょっと変だった。

まず変だと思ったのは、寝間着姿の信長がたった一人で鎧武者数人を相手に立ち回りを演じている。旧暦の6月の事だからその日もそれなりに暑く、就寝中の信長が浴衣に近い装いでいた事は十分想像できる。その彼を複数の鎧武者が取り囲む。そんな馬鹿な、信長の近習はどこにいたのだ。しかし、ドラマでは信長が孤軍奮闘する。はて、武将とは剣術も達者だったのだろうか。そうは思えない。武将の本分は経営者であり戦略家であるべきで、戦術家の能力すら外注していた事を考えると剣術の腕はそれほど要求されなかったのではないかと思うがどうだろう。どう考えても、無防備な信長がバッタバッタと重装備した敵方をなぎ倒すというのは不自然に思えて仕方なかった。

その信長もついに力尽き、自ら死を選ぶ。自分の死体を敵方に渡すな、とは如何にも彼が考えそうな事であるが、しかし自ら死を選ぶというのはちょっと信長らしくない。最後までわずかな可能性に賭けていたと信じたいが、まあここは譲るとして、そこで作法に則った切腹をするとはどうしても納得できない。

切腹は平安末期から鎌倉初期には既にあったようで、同時代の清水宗治も一定の作法に則った切腹をしているから、戦国時代には既に切腹のプロトコルは完成していたのであろうが、しかし本能寺のあの騒動の中でとてもその手順が踏めたとは思えない。まわりが右往左往する中で、形式的な事が嫌いな信長が、一人のんびりと和服の前を左右に払い、静かに脇差を腹に当てる姿は滑稽にも見えた。

むしろ、自分の遺体を首級を敵方に渡さないためにどういう工夫をして、どういう死に方を選んだのか、その点に関して新しい解釈をして欲しかった。

 

2026年7月21日火曜日

ディールか人情か

 4か月ぶりの帰省は自然の生命力と人情を実感させた。

生命力とは脅威であり、仮借なさである。庭の雑草の勢いは年を経るごとに強くなっており、除草剤の効力で背の低い可愛げな草しかなかったエリアに、今年は頑強な草が競い合うように縄張りを主張していた。これから数日草との戦いが始まる。シュースポスの神話の山がどんどん高くなっていくようだ。

屋内でも異変があった。洗濯機に給水するホースからポタポタ水が漏れるのだ。ホースの両端は特殊な金具で蛇口と洗濯機に接続され簡単に取り外せない。ホースの交換には専門知識が必要だと、最寄りの家電販売店に相談しに行った。そこの店主さんの親切な事!「まあお掛けなさい」と椅子を勧めてくれる。こちらの状況説明に「ホースに穴が空くのは考えられない。水栓との接続部分が漏れているのでは」と如何にも専門家的な原因究明をして、当該部分の部品を手に構造を説明してくれた。そして、良かったらこれを持ち帰って交換してみたら、と言ってくれる。奥様が出してくれたコーヒーまで御馳走になり、親切な対応に、ただただ感謝感動。

さらには、強風に煽られて網戸がレールを外れ宙ぶらりんになってニッチもサッチもいかなくなり、サッシ屋さんに来てもらった事も。流石にプロ、ホンの数秒でアッと言う間に直してくれた。こちらも当り前のように、「じゃあね」と何の請求もなく笑顔で帰っていかれた。日頃地元で信頼を積み重ねている友人の仲介があったらばこその事であるが、こちらも平田の人情をかみしめた次第。

全ての人間関係をディールと割り切って、マネーの介在なくしては人間関係が成り立たないような風潮がある昨今、人情と信頼の人間関係が生きて

2026年7月14日火曜日

気分損壊罪

 北米で行われているサッカーW杯はまだ終わった訳ではないが、恐らく一番嬉しかった事になるのは決勝トーナメント2回戦でベルギーがアメリカをコテンパンにやっつけてくれた事だろう。大統領がその権威を笠に着て、大会運営に横槍を入れる電話を掛け、それを受ける方も受ける方で、前の試合でレッドカードを受けた選手を出場可能にしてしまった。こういう理不尽がまかり通ると誠に気分が悪い。もし私が当日の審判だったら、キックオフの笛が鳴ったとたんに当該選手に駆け寄り、レッドカードを出してやりたかった。その後徹底的にサッカー界から干されようとも。 

W杯ではもう一つ気分を壊される事件があった。アメリカの国土安全保障長官がイランチームが敗退した事に関し「イランがもう終わって、戻ってこないことがうれしい。」と発言した事だ。かつては何々長官などという地位にいる人は、一定の品位を保っているか、少なくとも保とうとしている人ばかりだった筈だが、トランプ大統領になってからこんな人が次から次へと出て来る。

国旗損壊罪は国旗を「人に著しく不快又は嫌悪の情を催させるような方法」で、損壊・除去・汚損する事を禁じているが、「人に著しく不快又は嫌悪の情を催させる」事自体は罰せられないのだろうか。国旗損壊罪より気分損壊罪が欲しい。


国旗が焼かれた時に感じる不快感、それは自分が大切に思うものが粗末に扱われた事に起因する。自分が大切に思うもの、それは国旗に限らず人間の尊厳といったものも含まれる。古代より聖人君子が説いて来た、徳とか自制とか寛容とか、そういうものをないがしろにして自己の欲望を露骨に表面に出されると、とても不愉快で気分を害される。

なんとか気分損壊罪をトランプ周辺に適用して貰えないものか。

2026年7月7日火曜日

国旗損壊罪

 オーストラリアの建国記念日は126日で、これはイギリスが植民地統治を始めた日なのだそうだ。それを祝う人々がいる中で、先住民にルーツを持つ人達が抗議の意味を込めて、ユニオンジャックが配された国旗を燃やしてその意思表示をしたそうだ。こうした行動が日本国内で行われたら今後は間違いなく処罰の対象になる訳だが、本当にそれで良いのだろうか。

私は母国の日本を愛しているし、日章旗が燃やされたり、不当な扱いを受けたりする事には不快な思いをする事は事実である。いつだったか名古屋で「表現の不自由展」とか称して昭和天皇の肖像と思われる物が焼かれる映像が流れた事があったが、その時感じた大いなる不快と同じ気持ちに、もし国旗が焼かれたらなるだろう。

しかし国旗に対する思いは人それぞれであるという事も認めなければならない。1987年の沖縄国体では競技場に掲揚されていた国旗が引き下ろされ、焼却された。沖縄の人にとっては、第二次大戦末期の記憶や、未だに続く米軍の占領状態への反発から、国旗に対してオーストラリアの先住民に似た気持ちを持つ人がいてもおかしくないと思う。

一言で「国旗損壊」と言っても、いろんなケースがあって、罪を与えて欲しい案件と、罰する事はないのでは、という事件が混在し、結局裁く側の気分次第になってしまいそうだ。政府にとって都合の悪い人間が裏庭で古くなって使い終わった日章旗を焼却処分したら、それを名目に投獄されたりしても文句が言えないという事になる。

過去の日章旗焼却事件はいずれもが器物損壊罪で裁かれたそうだ。自分の持ち物を壊しても器物損壊罪にはならないだろうから、この罪は他人の物を壊した時限定だろうが、国旗だけは自分の物を壊しても恐らく罪に問われるだろうなあ。

2026年6月30日火曜日

反ユダヤ主義

 ようやくまとまりかけたアメリカとイランの停戦交渉にイスラエルがレバノン攻撃で横槍を入れている。イスラエルは自国の安全を脅かすものは絶対許さないとして、先制攻撃も辞さない事を明言して憚らないが、そんな事が国際社会で許されて良いのか。

そういうイスラエルの姿勢を批判すると、西欧では「反ユダヤ主義」だとして糾弾されるそうだ。特にドイツではナチスによる蛮行への贖罪の意識からイスラエルへの批判に及び腰のようだ。反ユダヤ主義とはユダヤ人に対する差別・偏見・迫害を指し、その極端な例がナチスによるホロコーストだが、ナチス以前からユダヤ人に対する偏見・差別はヨーロッパ社会に根強くあって「屋根の上のヴァイオリン弾き」などで描かれたり、シェークスピアの作品の中に垣間見えたりする。確かに不当な偏見・差別は許されてはならないが、だからと言ってユダヤ人なら何をしても良いという訳ではなかろう。ガザでの惨状などにあまりにも目を背けていると「やっぱりユダヤ人は・・・」と、却って反ユダヤ主義を助長してしまうのではないだろうか。

622NHKで放映された「映像の世紀」はホロコーストを取り上げ、その生存者で歴史家のイェフダ・エルカナの言葉が紹介された。「アウシュビッツの灰燼からイスラエルには二つの国民が生れました。一つは『二度とこのようなことが起きてはならない』と主張する少数派、もう一つは『二度とこのようなことが自分たちに起きてはならない』と主張する多数派です。」今イスラエルを動かしているのはその多数派で「だから我々の先制攻撃は許される」と考えている。パレスティナ人に対して同胞が行っている事に絶望して自ら命を絶ったプリーモ・レーヴィは少数派の一人なのだろう。

2026年6月23日火曜日

AIと遊ぶ

 最近何か分からない事があるとAIに聞く癖がついた。知識という点で言うとAIは世界の誰よりも物知りと言って良いだろう。今まで疑問に思っていて、身近の物知りに聞いても納得できる回答を得られなかった事柄も、実に明解に答え教えてくれる。

例えば、国連の常任理事国の一つが中華民国から中華人民共和国に交代した事。中華民国には拒否権があった筈だから、どうしてその拒否権を行使しなかったのか、ずっと不思議で誰に聞いてもはっきりしなかったのだが、AIは明快な回答をくれた。文科系の疑問だけでなく理科系の疑問でも、可視光の波長が長い赤から次第に短くなって紫になる事と色相環の関係について、色相環で赤と紫が自然な形で繋がっているが、あの自然な変化の途中のどこかで波長の断絶がある筈だが、それはどこにあるのか。そんな疑問にも答えてくれた。

ネットのどこかに載っている知識は全て網羅していると考えて良さそうだ。でもそれが故に注意も必要で、少し前京都府南丹市で小学生が殺害された事件、父親が逮捕される前には様々なデマが飛び交った。その頃AIに「父親は何歳か」と聞いたら「正式な発表はないが、ネットの一部では24歳だとの情報が流れている」と答えていた。

AIに答えられない質問は、何がネットに載ってないかを知る手掛かりになる。幸手市(旧幸手村)には昭和の初め頃まで三河屋という麹屋があった。ある知り合いの御母堂の実家だと言うので調べたら幸手市史にはちゃんと記録がある。だがAIに「旧幸手村の三河屋について教えてくれ」と聞いたら答えられなかった。幸手市史の内容はデジタル化がされていないらしい。拙著「トライアングル」については著者名、発行者、発行日、総ページ数、ISBN番号についてのみ回答があった。

2026年6月16日火曜日

今は昔

ガッツポーズという言葉、当コラムでも当り前のように使っていたが、それがガッツ石松氏に起源があるとは知らなかった。早速AIで確かめてみたら「ガッツ石松が1974年にWBC世界ライト級王座を獲得した際、両拳を突き上げて喜びを表した姿に由来する」とか。それ以前はどう呼ばれていたのかも聞いたら「勝利のポーズ」とか「拳を突き上げる」とか表現されていた、と。

時代の流れに沿って物事も変化すれば言葉も盛衰する。佐藤愛子さんの逝去をきっかけに読んだ「今は昔のこんなこと」というエッセイが面白かった。彼女の若い頃普通にあった事柄が無くなって行くのを惜しんでいる。腰巻に始まって、蚊帳、押売り、五右衛門風呂、居候、火鉢などが続く。言葉だけが見掛けなくなったものとして「巡査」というのもあった。これなど最近は警察官、警官などが主流になっているが、それはどうしてだろうか。

現役の高校生である孫娘に目次を見せて、どれだけ知っているか聞いてみた。知っているどころか、まず殆ど読めない。居候は「きょこう」と読む始末。そんな中「あ、これ知ってる」と言うのがあった。それは「円タク」、丸いテーブルの事でしょう、と言う。円卓と勘違いしたようだが、カタカナ部分はタクシーを略したものだ。当時定額料金の1円でタクシーに乗れたらしい。私が子供の頃にはタクシーどころか、自動車すら滅多に見かけなかったから私には縁のない言葉だった。こうした流れの中で、その内「本屋」という言葉がなくなってしまうのではないかと心配だ。年を追うごとに街の本屋が姿を消していく。

目次の中には良妻賢母という言葉もある。これも死語になってしまったか。今時の女子大生はリョーサイケンボを料裁兼母と書くらしい。