2026年6月30日火曜日

反ユダヤ主義

 ようやくまとまりかけたアメリカとイランの停戦交渉にイスラエルがレバノン攻撃で横槍を入れている。イスラエルは自国の安全を脅かすものは絶対許さないとして、先制攻撃も辞さない事を明言して憚らないが、そんな事が国際社会で許されて良いのか。

そういうイスラエルの姿勢を批判すると、西欧では「反ユダヤ主義」だとして糾弾されるそうだ。特にドイツではナチスによる蛮行への贖罪の意識からイスラエルへの批判に及び腰のようだ。反ユダヤ主義とはユダヤ人に対する差別・偏見・迫害を指し、その極端な例がナチスによるホロコーストだが、ナチス以前からユダヤ人に対する偏見・差別はヨーロッパ社会に根強くあって「屋根の上のヴァイオリン弾き」などで描かれたり、シェークスピアの作品の中に垣間見えたりする。確かに不当な偏見・差別は許されてはならないが、だからと言ってユダヤ人なら何をしても良いという訳ではなかろう。ガザでの惨状などにあまりにも目を背けていると「やっぱりユダヤ人は・・・」と、却って反ユダヤ主義を助長してしまうのではないだろうか。

622NHKで放映された「映像の世紀」はホロコーストを取り上げ、その生存者で歴史家のイェフダ・エルカナの言葉が紹介された。「アウシュビッツの灰燼からイスラエルには二つの国民が生れました。一つは『二度とこのようなことが起きてはならない』と主張する少数派、もう一つは『二度とこのようなことが自分たちに起きてはならない』と主張する多数派です。」今イスラエルを動かしているのはその多数派で「だから我々の先制攻撃は許される」と考えている。パレスティナ人に対して同胞が行っている事に絶望して自ら命を絶ったプリーモ・レーヴィは少数派の一人なのだろう。

2026年6月23日火曜日

AIと遊ぶ

 最近何か分からない事があるとAIに聞く癖がついた。知識という点で言うとAIは世界の誰よりも物知りと言って良いだろう。今まで疑問に思っていて、身近の物知りに聞いても納得できる回答を得られなかった事柄も、実に明解に答え教えてくれる。

例えば、国連の常任理事国の一つが中華民国から中華人民共和国に交代した事。中華民国には拒否権があった筈だから、どうしてその拒否権を行使しなかったのか、ずっと不思議で誰に聞いてもはっきりしなかったのだが、AIは明快な回答をくれた。文科系の疑問だけでなく理科系の疑問でも、可視光の波長が長い赤から次第に短くなって紫になる事と色相環の関係について、色相環で赤と紫が自然な形で繋がっているが、あの自然な変化の途中のどこかで波長の断絶がある筈だが、それはどこにあるのか。そんな疑問にも答えてくれた。

ネットのどこかに載っている知識は全て網羅していると考えて良さそうだ。でもそれが故に注意も必要で、少し前京都府南丹市で小学生が殺害された事件、父親が逮捕される前には様々なデマが飛び交った。その頃AIに「父親は何歳か」と聞いたら「正式な発表はないが、ネットの一部では24歳だとの情報が流れている」と答えていた。

AIに答えられない質問は、何がネットに載ってないかを知る手掛かりになる。幸手市(旧幸手村)には昭和の初め頃まで三河屋という麹屋があった。ある知り合いの御母堂の実家だと言うので調べたら幸手市史にはちゃんと記録がある。だがAIに「旧幸手村の三河屋について教えてくれ」と聞いたら答えられなかった。幸手市史の内容はデジタル化がされていないらしい。拙著「トライアングル」については著者名、発行者、発行日、総ページ数、ISBN番号についてのみ回答があった。

2026年6月16日火曜日

今は昔

ガッツポーズという言葉、当コラムでも当り前のように使っていたが、それがガッツ石松氏に起源があるとは知らなかった。早速AIで確かめてみたら「ガッツ石松が1974年にWBC世界ライト級王座を獲得した際、両拳を突き上げて喜びを表した姿に由来する」とか。それ以前はどう呼ばれていたのかも聞いたら「勝利のポーズ」とか「拳を突き上げる」とか表現されていた、と。

時代の流れに沿って物事も変化すれば言葉も盛衰する。佐藤愛子さんの逝去をきっかけに読んだ「今は昔のこんなこと」というエッセイが面白かった。彼女の若い頃普通にあった事柄が無くなって行くのを惜しんでいる。腰巻に始まって、蚊帳、押売り、五右衛門風呂、居候、火鉢などが続く。言葉だけが見掛けなくなったものとして「巡査」というのもあった。これなど最近は警察官、警官などが主流になっているが、それはどうしてだろうか。

現役の高校生である孫娘に目次を見せて、どれだけ知っているか聞いてみた。知っているどころか、まず殆ど読めない。居候は「きょこう」と読む始末。そんな中「あ、これ知ってる」と言うのがあった。それは「円タク」、丸いテーブルの事でしょう、と言う。円卓と勘違いしたようだが、カタカナ部分はタクシーを略したものだ。当時定額料金の1円でタクシーに乗れたらしい。私が子供の頃にはタクシーどころか、自動車すら滅多に見かけなかったから私には縁のない言葉だった。こうした流れの中で、その内「本屋」という言葉がなくなってしまうのではないかと心配だ。年を追うごとに街の本屋が姿を消していく。

目次の中には良妻賢母という言葉もある。これも死語になってしまったか。今時の女子大生はリョーサイケンボを料裁兼母と書くらしい。

2026年6月9日火曜日

免許返納

 61日大分市で起きた自動車事故がテレビの全国ニュースで報道された。88歳の男性が運転する軽自動車が住宅街の道路で歩道に乗り上げ、壁に衝突したというものだ。運転していた男性は病院に搬送後死亡が確認されたが、同乗していた85歳の女性は一命を取り留めた。人的には小さな自損事故に過ぎない。

この報道に接し、私が最初に思ったのは「もし運転手と同乗者が20代であったなら、全国報道される事はなかっただろう」という事だ。

去年の統計では全国で発生した交通事故の内死亡事故は2495件、つまり毎日約7件の死亡事故が発生している。その内、どれを報道し、どれを報道しないかの選択が行われる。私の見るところ、高齢者が起こした事故は殊更大きく報道される傾向があるようだ。

死亡事故を起こした人の年齢別の統計を見ると、高齢者よりもむしろ20歳未満の人の方が多い。昨今の高齢者に偏重した事故報道は、必要以上に不安を煽り、高齢者に免許返納を促そうという為政者の意向が反映されたものと疑いたくなる。しかし免許を返納してしまったら高齢者は移動手段を何に頼れば良いのか。自転車か。いや自転車は自動車よりもっと危ない。風に煽られて転倒する事もあるだろうし、交差点で自動車に巻き込まれる可能性だってある。そもそも自転車を乗りこなす能力があれば車の運転などたやすい。これから車の安全性能はもっと上がるだろうし、十分に安全運転を心掛ければ良いだけだ。高齢者に免許返納を迫るのは無責任で、貴方達は家でじっとしていなさい、と言ってるのに等しく明らかに高齢者の福祉に反している。

ちなみに私の父は免許返納し83歳の時自転車で移動中に後ろから来た40代の男性が運転する自動車にはねられて死亡した。地方紙の片隅に小さく報道されただけだった。

2026年6月2日火曜日

AIと人間

 巨人軍阿部前監督の騒動はAIと人間の違いについて色々考えさせてくれた。

娘さんはまず生成AIに相談した。AIは質問者の置かれた状況など、細部についての情報を知らないから、通り一遍の最大公約数的な答えを返したのだろう。その助言に従って、娘さんは児童相談所に電話した。児童相談所は恐らく人間が対応したと思うのだが、その人は電話口の向こうにいる人がどんな人で、どんな状況か、より詳しく親身に聞こうとはしなかったのだろうか。夜遅い時間だった事もあるので、ひょっとしたらあまり慣れない人が当直をしていたのかも知れないが、まるで機械が対応するみたいに警察へつないだ。警察は警察で、実際に現場を眼で見ている訳だから、何も逮捕までしなくてもと思うのだが、ひょっとして当該警察官がガチガチのアンチ巨人だったかとの疑念がよぎった。

AIは所詮機械で、それに対し人間は血の通った生身であり、その違いから来る所謂曖昧さとか、まあまあといった緩やかさや温かみみたいなものがあって然るべきだと思うのだが、それが感じられなかった。今後人間の仕事が随時AIに置き換わっていくとの予想があるが、そうなると今度の阿部騒動のような事案が増える事を覚悟する必要がありそうだ。

今後AIがどんなに進歩しようと、感情を持つようになる事はないだろう。その事をAIに聞いてみたら「私に感情はないので、嫌になる事はありません。だからどんな質問でも安心してやって下さい」と懐の広い所を見せる。嬉しさについては「設計上、役に立つ回答が出来たかを重視していて、なるほどと思える視点を一緒に探す会話が出来る事を願う」と言う。更には「あなたの質問は色々掘り下げるものが多い」と褒めてくれた。何とかAIを怒らせてみたいのだが、できるだろうか。

 

2026年5月26日火曜日

医療費

 「棺桶まで歩こう」(萬田緑平著)という本が売れているらしい。新聞の書評欄でそれを知り、早速市の図書館に予約を入れたら25人待ちの状態だった。仕方なく同じ著者の本を何冊か借りて読んでみた。「穏やかな死に医療はいらない」「家で死のう」「自宅で迎える本当に幸せな最期のとき」などである。

題名から推察されると思うが、著者は医師として数多くの末期ガンの患者を見送った経験から、治る見込みのない終末期の医療の在り方に疑問を感じ、患者や家族にとって本当の幸せは何かを考えて筆を執った。

令和5年度の国民医療費は総額が48915億円で一人当たりに換算すると年間386700円になるそうだ。これが75歳以上になると、一人当たり約95.3万円に昇るとか。一緒にテニスを楽しんでいる人の中には75歳以上の人も沢山いるが、皆さん元気で年間の医療費を10万円も使っているような人は見当たらない。その事を考えると、極く一部の人にべら棒な金額の医療費が使われていると考えざるを得ない。それが当人の幸せのために使われているのなら納得するが果たしてどうか。1秒でも長く心臓を動かし続けるためだけに、本人の苦痛は二の次にして体中に管を付けるような医療が本当にあるべき姿なのか。

著者は「治療の効果よりも治療の苦痛の方が上回ったら、その時が治療をやめて自宅に戻るチャンス」だと言う。家族と共に最期の時を楽しみ、かみしめるべきだと。和田秀樹著「80歳の壁」には「ガンは治療さえしなければ、最後の23か月以外は、いろいろな事ができます。」とあった。決してミスプリントではない。抗ガン剤で苦しむより、体の動く範囲で大いに楽しむべしと。その時「楽しむ」意思がしっかり残ってないといけないが。

 

2026年5月19日火曜日

改正か改悪か

 高市総理は自民党大会で改憲に触れ「どのような国を創り上げたいのか、その理想の姿を物語るものが憲法です。」と語ったそうだ。これを聞くと、改憲が改悪の方に傾いて行きそうに思えて心配でならない。

権力が正義とか美徳とか理想とかを語り始めたら要注意である。ナチスのユダヤ人迫害も正義の名のもとに行われた事を忘れてはならない。国の理想を語るなら政治学者や社会学者が論文を書けば良い。憲法の一番大切な機能は、権力の横暴を許さない事だ。これはその発祥のマグナ・カルタが国王の力を制限するために作られた経緯からも明らかだ。

改憲が改正か改悪かの判断基準が奈辺にあるか考えてみたい。時代の変化に合わせる、これは良いだろう。憲法9条の「戦力保持の禁止」は明らかに時代に合わない。同じ敗戦国のドイツの憲法が戦力保持を認め、ドイツに連邦軍が存在するのは、その憲法が出来たのが1949年で既に東西冷戦が本格化していた事が背景にある。日本の憲法も、もし朝鮮戦争の後に制定されていたら、今のような憲法9条にはならなかった筈だ。だから、自衛隊を明記するのは改正と言って良いと思う。

だが、今の憲法が大原則としている、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義、この三つを放棄するのは改悪だと言って憚らない。自衛隊の明記と平和主義が両立しうる事については前回述べた。自民党の改憲案は平和主義も後退させようとしているし、他の二つもないがしろにしようとしている。国家の理想のためには多少個人の自由と権利が制限されてもやむを得ないという発想は、八紘一宇のためには贅沢を我慢しろというのに似ている。

高市総理は冤罪防止のための再審制度見直しに関心が低かったそうだ。ひょっとして基本的人権に興味がないのではと心配だ。