2015年10月27日火曜日

賭博

巨人の選手三人が野球賭博に係わったとして大きく報道された。NHKは夜七時のニュースのトップで扱った。この事件がこんなに大きく扱われるのが不思議だった。
ニュースを詳細に追跡したわけではないが、三人が自分の賭けが有利になるように八百長をしたわけではなさそうだ。出場機会も少ない選手だからしようと思っても出来なかったのかも知れないが。野球と言う自分の職業を賭けの対象にする事がけしからん、という事か。ならばもしサッカーJリーグの選手がTOTOの籤を買ったらどうなのだろうか。その時も今回のような大騒ぎが起きるのだろうか。胴元を国家がやっているなら良いが、暴力団のような反社会的グループが胴元を務める賭け事はけしからん、という事なのか。
そもそも賭博は刑法で禁止されていて第百八十五条に「偶然ノ輸贏ニ関シ財物ヲ以ッテ博戯又ハ賭事ヲ為シタル者ハ」罰するとある。輸贏などと難しい言葉が使われているが要するに勝負事。だから本来ならTOTOや競馬も犯罪で文科省や農水省は罰せられなければいけないはず。
そんな事を言ったら刑法の第百八十七条には「富籤ヲ発売シタル者ハ」罰するとあり、宝くじを発売している国や地方自治体は刑法違反をしている事になる。
刑法が禁じていることでも国がやれば許容される事の最たるものが殺人だろう。賭博や富籤は大目に見ても、殺人だけはたとえ国であっても許せないと言う人が多いに違いない。だから戦争は絶対反対。だけど死刑はどうか。死刑廃止論者の根拠が国家による殺人を否定するからなのだが、どうも難しい問題だ。
(宝くじは正式には「当せん金付証票」と言って富籤とは違うそうです。「当せん」を漢字で書くと「当籤」だが、「当選」と間違えて貰うため敢えて漢字にしないのでしょう。)

2015年10月20日火曜日

面倒くさい

財務大臣が軽減税率の導入を「面倒くさい」と仰る。思わず我が耳を疑ってしまう。
財務省の役人の気持ちを代弁しての事だろうか。そもそも財務大臣は財務省という会社の社長に相当する。社員が面倒くさいと思っている事を社長が代弁して顧客に向かって発言したらどうなるのだろう。例えば建設会社の社長が「構造計算は面倒くさいんですよ」と言ったら?確かに構造計算は面倒くさい。一つ一つの部屋の使い方に応じた荷重を算定して、地震の時はどんな力がかかるか、台風の時はどうか、多雪地帯なら大雪の荷重はどの程度になるのかを全て計算して、それに耐えるだけの強度をもった部材を設計していく。それらの作業が面倒くさいから経験値と目分量で柱の太さを決めました、という社長がいたらその会社に建物を発注する人がいるだろうか。財務省に競争原理のない事が問題だが、それについてはまた別の機会に。
大臣の役割は役人の声を代弁する事でなく、国民の声を背景に役人を指導監督し、時には叱咤する事ではないか。かつて役人を敵に回して失敗した大臣もいた。当然両者に信頼関係は必要だ。社員を信頼しない社長がいたらその会社はいずれ駄目になるだろう。しかし信頼関係と甘えの構図は別問題のはず。信頼関係があればこそ叱咤激励もできようというものだ。
同じ日の新聞の読者投書欄にゴミ置き場のカラス対策についての投書があった。生ゴミを牛乳パックに入れたり、袋を二重にしたりしてカラスがゴミをつつけない工夫を見て「ちょっと面倒くさいけど私も工夫してゴミを出すようになった。」と結んである。
面倒くささに負けそうになったら、細部まで手を抜かずに緻密に描く画風の山口晃の作品でも見て、再度自分を奮い立たせるのも一つの方法だろう。

2015年10月13日火曜日

続政治家とモラル

前回のコラムで誤解があるといけないのだが、決してモラルを軽視しているわけではなく政治家にとってモラルも大事だがそれ以上に能力と情熱を問題にすべきだと言いたい。
そもそもモラルは政敵を貶めるためによく持ち出されるもので注意を要す。田沼意次の悪評もその政敵である松平定信らによって捏造された可能性を否定できない。田沼の実像はもっと清廉なものではなかったかというテーマで山本周五郎は「栄花物語」を書いた。
田沼と定信の関係は有能な成り上がり者を既存勢力が妬み追い落としを図るという構図で、菅原道真と藤原時平の関係に似ている。道真の場合はその没後に起きた天変地異が彼の祟りだと恐れられ鎮魂のために天神様に祭り上げられたが、田沼はその在任中に天候不順を原因とする天明の大飢饉が起きたため名誉を失ってしまった。天変地異のタイミングがずれていたら、ひょっとしたら菅原道真もひどい汚名を着せられてしまったかも知れない。
中国では易姓革命を正当化するため前王朝の最後の皇帝はいつも悪者に仕立て上げられる。夏の桀王しかり、殷の紂王しかり、隋の煬帝しかり。流石に皇帝ともなると賄賂ではなく、荒淫が持ち出されるのが常だ。後宮に何千人も女を囲って毎晩一人ずつ訪ねて回った、などと。だがこれは間違いなくウソだと思う。もし本当にそんなに多数の女性がいたのなら、大広間に全員を集めて、一番綺麗で気立ての良い女性を選んで、毎晩その人と一緒に過ごしたいと思うだろう。玄宗皇帝が楊貴妃を愛したように。それとも贅沢が過ぎると「明日はどんな人かなあ」と思いながら気もそぞろにスリルを楽しみたくなるものなのだろうか。
先日亡くなった落語家、入船亭扇橋の句「しあはせは玉葱の芽のうすみどり」こんな世界が僕は好きだなあ。