2015年10月13日火曜日

続政治家とモラル

前回のコラムで誤解があるといけないのだが、決してモラルを軽視しているわけではなく政治家にとってモラルも大事だがそれ以上に能力と情熱を問題にすべきだと言いたい。
そもそもモラルは政敵を貶めるためによく持ち出されるもので注意を要す。田沼意次の悪評もその政敵である松平定信らによって捏造された可能性を否定できない。田沼の実像はもっと清廉なものではなかったかというテーマで山本周五郎は「栄花物語」を書いた。
田沼と定信の関係は有能な成り上がり者を既存勢力が妬み追い落としを図るという構図で、菅原道真と藤原時平の関係に似ている。道真の場合はその没後に起きた天変地異が彼の祟りだと恐れられ鎮魂のために天神様に祭り上げられたが、田沼はその在任中に天候不順を原因とする天明の大飢饉が起きたため名誉を失ってしまった。天変地異のタイミングがずれていたら、ひょっとしたら菅原道真もひどい汚名を着せられてしまったかも知れない。
中国では易姓革命を正当化するため前王朝の最後の皇帝はいつも悪者に仕立て上げられる。夏の桀王しかり、殷の紂王しかり、隋の煬帝しかり。流石に皇帝ともなると賄賂ではなく、荒淫が持ち出されるのが常だ。後宮に何千人も女を囲って毎晩一人ずつ訪ねて回った、などと。だがこれは間違いなくウソだと思う。もし本当にそんなに多数の女性がいたのなら、大広間に全員を集めて、一番綺麗で気立ての良い女性を選んで、毎晩その人と一緒に過ごしたいと思うだろう。玄宗皇帝が楊貴妃を愛したように。それとも贅沢が過ぎると「明日はどんな人かなあ」と思いながら気もそぞろにスリルを楽しみたくなるものなのだろうか。
先日亡くなった落語家、入船亭扇橋の句「しあはせは玉葱の芽のうすみどり」こんな世界が僕は好きだなあ。

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