2016年2月23日火曜日

昨今

元スポーツ選手の芸能人が覚醒剤疑惑で捕まったかと思えば、どこかの町会議員が同じく覚醒剤疑惑で逮捕された。芸能人の不倫が騒動されると今度は国会議員の不倫騒動が持ち上がった。芸能人と議員とは似た者同士なのだろうか。
確かにどちらもそれなりに野心がないとなれない職業だし、自己顕示欲は旺盛で自負も自信もある人達だ。不倫も覚醒剤も小心者にはなかなか手が出せない。勿論スキャンダルを提供する人は極わずかで、少ない例外で全体を判断する愚は気を付けないといけないが。
ところで不倫という言葉、昔は浮気という言葉が一般的だったような気がする。日本国語大辞典を見ると「不倫」は一九〇三年の国木田独歩の「正直者」という作品が初見で、「浮気」は十七世紀頃から使われていた言葉らしい。その他和語では「みそかごと」という言葉が十二世紀前半に成立した大鏡に見られるとか。いずれも「男女がひそかに情を通じ合うこと」と言った解説がある。
「情を通ず」の項を調べるとすぐそばに「情が通う」という見出しがあって「相手に接しているうちに愛情や親しみを持つようになる」という解説がある。「情を通わす」のと「情が通う」とはエライ違いのようだ。
北原白秋と俊子の場合はおそらく「情が通う」ケースだったのだろうが、もし今のマスコミが二人の事件を嗅ぎ付けたらやはり興味本位に書き立てるのだろうか。
それにしてもどの事件も当事者の私信が当たり前のように暴露されるのには驚く。刑法第百三十三条には信書開封の罪というのがあって「正当な理由がないのに、封をしてある信書を開けた者は一年以下の懲役云々」となっている。保護法益を考えればメールの暴露も同罪と思うのだが・・・
なんて事を徒然なるままに思い巡らす昨今ではある。

2016年2月16日火曜日

経年変化

手元のメモによると去年十月のニュースだが、凶悪犯の指名手配写真について、長らく未解決のものは年数の経過と共に犯人も老けている筈だから、犯人の老けた顔を予測して公開する技術が開発されたとの事だった。そのニュースを見て最初に思ったのは、そんな素晴らしい技術があるのなら、見合い写真に将来の予測も添付したらどうかという事だった。
冗談はさておき、何年か経った後の姿が正確に予測できるならそれは大変貴重な情報を提供するはずだ。まず思い浮かべるのは鞄や財布などの革製品。良い素材を使って丁寧に仕上げられた立派な製品は使い込めば使い込むほど艶が出て、味が出て、より強い愛着を感じるようになる。ところがどこかの新興国の安物はちょっと使っただけでほつれて色あせして見るも無残な姿をさらけ出す。
職人技ほど違いが顕著ではないにしても一般工業製品でも厳しい品質管理の元で作製された製品はやはり持ちが違う。全ての商品について販売する際に十年後二十年後の姿を添付することを義務付けたら粗悪品が駆逐されて健全な市場形成に役立つのではないか。
人間の場合どうか。年を重ねるごとに人間としての魅力を増す人もいれば、畳と女房は新しい方がいい、なんて事を言う人もいる。十代の頃の魅力と六十代での魅力とに必ずしも正の相関があるわけではない事は同窓会に出てみるとよく分かる。小学生の頃目立たなかった女性がとても魅力的なご婦人になっていたりする。人間の容姿の経年変化はおそらくその人が過ごした時間の中身に関係する。美しく齢を重ねた人はきっと充実した幸福な人生を歩んできたのだろう。
自分の伴侶を美しく老けさせたいのなら、幸福な日々をプレゼントすべく自らを律するしかなかったのだ。もう手遅れだけど。

2016年2月9日火曜日

喫煙放屁論

喫煙による弊害を過大視するあまり、喫煙シーンを含む映画を子供たちに見せないようにしようとする動きがあるらしい。テレビのワイドショーで取り上げられて、視聴者からの賛否を問うていたが、制限に反対する意見が三対一くらいの割合で賛成を上回って安心した。
こういうことを発案する人は所謂差別用語とされる放送禁止用語を耳にするときっと正義感に燃えて激怒するに違いない。だが、こういう人の方が弱者にたいするやさしい気遣いが苦手なのではないだろうかと、何の根拠もないが思ってしまう。
喫煙シーンを子供たちに見せないのは、まるで子供たちを無菌室で育てようとするようなものだ。流石にばい菌がウヨウヨいるような環境には子供たちを置きたくないから、極端な性や暴力のシーンを遠ざけたいのは分かる。だが時には泥んこ遊びもさせないと健全な発育が期待できないのでは。
実は私も喫煙の習慣を断つために苦労した記憶がある。自分の肺の病気では出来なかった禁煙だが、喘息気味の娘の迷惑になっている事に気付き成功した。その時思ったのは喫煙は放屁と同じだ、という事だ。
紫煙をくゆらす、などといかにも文化人的な格好良さを煙草に感じていたが、気が付いて見れば何の事はない、煙草を吸う事は屁をこく事と同じである。本人は気持ち良いかも知れないが周りの人には臭くて迷惑だ。だが、人によっては生理現象で我慢ならないこともあろうから、絶対にするなとは言わない。目くじらを立てて迫害するかのような扱いは大人気ない。ただ、まわりの迷惑を考えて出来れば隠れてこっそりやるべきなのだ。トイレに駆け込む時間がなくて公衆の中で放屁してしまう事が稀にある。この時私は周りの喫煙を黙認しようという気持ちになるのである。

2016年2月2日火曜日

人工知能

先月二十八日の夕刊、「人工知能が囲碁プロ破る」という記事が目に止まった。中国出身のプロ棋士(二段)と五回対戦し全勝したというから本物だ。
チェスは1997年にコンピュータが世界チャンピオンを負かし、将棋では2012年にプロが負けた。将棋の名人がコンピュータと対戦しないのはいたずらに時間稼ぎをしているだけに見えるがどうか。記事によると今年三月には韓国のイ・セドル九段と対戦する予定だそうだ。イ・セドル九段は私の見るところ現在世界最強の棋士だ。この対戦は見逃せない。
さて、ゲームの複雑さを表す場合の数はチェスが10120乗、将棋が10226乗、囲碁が10360乗なのだそうだ。ピンと来ないかも知れないが、万、億、兆、京と位が上がって一番大きな無量大数という位が1068乗にしか過ぎないから文字通り数え切れない数字だ。数字的にはチェスと将棋を掛け合わせたものより囲碁の方が難しいのだから記事に「予想より十年早く」と付記されていたのも頷ける。
年末十二月三十日には「AI芸術、著作権は?」と題して、人工知能が作り出した芸術作品の著作権の扱いに関する記事があり、人工知能が作った小説(ショートショート)が載っていた。星新一の作品を読ませ、特徴を学習させて作ったのだそうだ。流石にトルストイやドストエフスキーの小説を学習させるのは無理なのだろう。でも不思議なのはこの研究者がAIに小説を書かせようとした事で、どうして俳句や短歌ではなかったのか。

ともかく、いくら囲碁が強くてもそのソフトは五目並べは出来まい。機械の知能とはそんなものだ。そして何より「意識」がない。意識とは何か、意識の起源は科学界の大命題。まだまだ人類の知的好奇心が退屈することはなさそうだ。