2016年2月9日火曜日

喫煙放屁論

喫煙による弊害を過大視するあまり、喫煙シーンを含む映画を子供たちに見せないようにしようとする動きがあるらしい。テレビのワイドショーで取り上げられて、視聴者からの賛否を問うていたが、制限に反対する意見が三対一くらいの割合で賛成を上回って安心した。
こういうことを発案する人は所謂差別用語とされる放送禁止用語を耳にするときっと正義感に燃えて激怒するに違いない。だが、こういう人の方が弱者にたいするやさしい気遣いが苦手なのではないだろうかと、何の根拠もないが思ってしまう。
喫煙シーンを子供たちに見せないのは、まるで子供たちを無菌室で育てようとするようなものだ。流石にばい菌がウヨウヨいるような環境には子供たちを置きたくないから、極端な性や暴力のシーンを遠ざけたいのは分かる。だが時には泥んこ遊びもさせないと健全な発育が期待できないのでは。
実は私も喫煙の習慣を断つために苦労した記憶がある。自分の肺の病気では出来なかった禁煙だが、喘息気味の娘の迷惑になっている事に気付き成功した。その時思ったのは喫煙は放屁と同じだ、という事だ。
紫煙をくゆらす、などといかにも文化人的な格好良さを煙草に感じていたが、気が付いて見れば何の事はない、煙草を吸う事は屁をこく事と同じである。本人は気持ち良いかも知れないが周りの人には臭くて迷惑だ。だが、人によっては生理現象で我慢ならないこともあろうから、絶対にするなとは言わない。目くじらを立てて迫害するかのような扱いは大人気ない。ただ、まわりの迷惑を考えて出来れば隠れてこっそりやるべきなのだ。トイレに駆け込む時間がなくて公衆の中で放屁してしまう事が稀にある。この時私は周りの喫煙を黙認しようという気持ちになるのである。

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