2016年7月26日火曜日

放射能

久しぶりに銀座の街を歩いた。世界のファッションブランドが軒を並べているのは想定内だったが、通りに面した壁面が縦に波打っているビルがあったのにはびっくりしてしまった。年に一度位は銀ブラをするのもボケ防止には良いのかも知れない。
銀座へ行った目的はシャネル・ネクサス・ホールで行われている写真展を見る事だった。シャネルのビルへ行くとなんと開店は十二時だとか。さすが世界の金持ちを相手にする商売は違う。幸い近くにあった伊東屋で時間を潰し、開店を見計らって再度尋ねると正装に身を包んだドアマンが丁重に出迎えてくれた。
写真展は原発被害を受けた福島県の浪江町の現在の様子を写したものだった。賞味期限が三月十四日と書かれたスーパーのお肉のパックが干からびたまま放置されたものや、荒れたままの店内で呆然と立ち尽くす店主の姿、それには未だに盗難の被害があるという解説が付く。中でも一番印象的だったのは崩れず残った家屋を植物が覆い尽くす様だった。
撮影地点での放射線量が付記されていないのが残念だったが、おそらくかなり線量は高いはず。それを苦にせず旺盛に繁茂する植物の生命力にうたれた。
地球はかつて嫌気性生物の天下だった。ある時植物が光合成を始め、酸素という嫌気性生物にとっては猛毒をまき散らしたため地球の環境が一変し、今や嫌気性生物は片隅でやっと生き延びている。
人類が何らかの理由で地球上に放射能をまき散らしたら、おそらくそれに耐性のある生物で地球は覆い尽くされるだろう。その時人類の子孫は片隅でもいいから生き延びていられるだろうか。
廃屋を中心にした夜景の写真があった。夜空に輝く星がたまらなく美しかった。この星たちは地球に人類という生物がいるなんて知らないのだろう。

2016年7月19日火曜日

参議院

参院選が終わったと思ったらすぐさまその有効性を問う訴訟が起こされた。一票の格差を問題にしたものだ。新聞報道によると参院議員一人当たりの有権者数は最大の埼玉選挙区は最小の福井選挙区の約三倍になるそうだ。
議員の数が人口に比例しないといけないのかどうか、それ自体にも疑問が残るが、仮にそれが正論だとするなら、いっその事人口の少ない県に合わせて人口の多い県の議員数を増やしてしまえばいいのではないか。埼玉選挙区が福井の三倍あるなら埼玉の定員を今の三倍の十八人にする。そうすると当然全体の議員数がうんと増える事になる。
国会議員の身を切る改革というといつも定数削減が問題になる。そうではなくて、歳費全体を削減する事の方が本質だろう。議員数が増えても全体の歳費は増やさなければいい。現在トータル二百四十二人に対して一人三千万円として全体で七十億円強の歳費がかかっているとしてそれを上限とし、定員が倍の五百人になったなら一人当たりの支給を千五百万に減らせばいいだけの話だ。そうすれば都会の議員も自分の給与が減らないよう真剣に地方の活性化や人口の平準化を考えるようになるのではないだろうか。
そもそも今の形での参議院が本当に必要か。本来参議院は衆議院のチェック機能を期待されているはずだ。ならば衆議院と同じように政党が主導する形で意思決定を行う参議院の存在理由は極めて薄いと言わざるを得ない。今の形態の参議院を廃止して、全国知事会議にその役割を担わせたらどうだろう。衆議院が決めた事を各地元の行政を直に担当している立場からチェックし、是非を判断する。当然知事のスタッフである各県職員さん達も勉強する事になるし、参院議員に払っている経費も削減でき、一石何鳥もの解決策に思えるが。

2016年7月12日火曜日

権利か義務か

投票権が十八歳まで引き下げられた。投票権と言うぐらいだから権利だと思っていたが、ある国では投票は国民の義務であるとして、投票しなかった人に罰金を課す場合もあるとか。権利か義務かに関して面白い事象に出くわした事がある。
市内の体育館へ行った時たまたま町内対抗のバレーボールをやっていた。パスもままならない初心者の集まりで、サーブをレシーブしたのはいいが、自陣でボールを回している間にどんどんボールコントロールを失い結局ミスして失点してしまうケースが多く見られた。三回パスをして良いと言うのは、その間にボールを支配してより攻撃的に相手陣に打ち込むために認められた権利であって、必ずしも義務ではないのだから、技量が十分にない場合はボールコントロールを失わない内に出来るだけ早く相手陣にボールを返した方が勝利への近道ではないかと思われた。
権利を主張するには一定の能力の裏付けが必要と思われる。それがないままに義務感に駆られて権利を行使すると思わしくない結果を招く事があるようだ。英国のEU離脱もその一例に見える。事態をよく理解しないまま、義務的に投票権を行使して今頃悔やんでいる人が多数いるようだ。残留か離脱かの二者択一の他に「よく分からない」「情報と理解が不十分なので権利行使を留保したい」という選択肢があれば事態はもっと違っていたのでは。
一般に国民投票においては白か黒かを迫るのではなく、権利を放棄する自由を与えて、その第三の立場が多数を占めた場合は現状への不満が左程大きいわけでないのだから継続性重視の観点から現状を変更しない、という配慮が必要なのではないか。権利の行使を義務化する事には一抹の危惧を感じる。勿論その場合も「放棄する」という意思表示は必要であるが。

2016年7月5日火曜日

クリーンかクリアか

お金にクリーンな政治家を選ぼう、選挙のたびにそう言われる。お金にクリーンである事を有権者が求めていることを政治家も重々承知なのだろうが、何故かいつもその問題でつまづく人が出る。政治家がお金にクリーンである事は、運動神経の鈍い人が逆立ちして歩く事ほどに難しい事ではないだろうか。
山本周五郎が創作した人物に赤ひげという名医がいる。黒澤明の映画では三船敏郎がその役を演じた。彼は金持ちからは法外な治療費をふんだくり、貧しい人達の治療に役立てる。赤ひげはお金にクリーンな人ではない。そのやり方を加山雄三演じる若い弟子は批判的な眼差しで見ている。お金にクリーンな医者なら治療費を診療科目ごとに明記し、その言わば定価表に従って請求するだろう。
医者の価値はお金にクリーンかどうかより病気を治す能力があるかどうかにある。同様に政治家の価値もお金にクリーンかどうかより、的確な判断の元、関係者の利害を調整して何か事を成し遂げる能力があるかどうかで測るべきではないか。田中角栄はロッキードからお金を貰った事を非難される前に、ロッキードを選んだ判断が適切だったかどうかを問われるべきだ。もしあの時点でグラマンの方が性能や価格の面で優れていたのにも拘わらずロッキードを推薦したのなら、その判断ミスをこそ非難されるべきだろう。賄賂はそれが不当な便宜を呼び込むから悪い。
政治と金の関係はクリーンであるよりクリアである事を求めたらどうか。スポーツ選手がスポンサーの名前の入ったユニフォームでプレーするように、政治家も誰からお金を貰っているか背広に縫い付けて、あるいは選挙の際に襷に明記したらいい。そうすればお金を貰った人に対して不当な便宜を図る事もできなくなるだろうから。