2016年12月27日火曜日

今年の一番

今年も残りあとわずか。例によって今年の一番を振り返ってみる。
読んだ本の中で一番面白かったのは456回で紹介した『量子力学で生命の謎を解く』。矢張りこれを越える本には出会えなかった。次点のものを二点あげるとすれば竹村公太郎著『日本史の謎は地形で解ける』と吉本佳生著『暗号が通貨になる「ビットコイン」のからくり』を挙げる。
前者の著者は土木技術者で全国のダム工事や橋梁工事の経験を基に地形から歴史の謎解きをする。例えば半蔵門こそが江戸城の正面の門であったのは何故か、など。後者は話題のビットコインについて理解したくて読んだのだが、RSA暗号の仕組みは理解できたものの、ビットコインそのものについては今ひとつ完全理解には至らなかった。いわく『ビットコインとは「コンピュータ上に記録されたデータを暗号化し、その「一意性」を保証することで通貨になりうる属性をもたせたデータ」である。』と。
映画で面白かったのは『シン・ゴジラ』。アタフタする官僚機構を嘲笑ったコメディとして楽しめた。もう一度見たい映画といえば八年前のものになるがウッディ・アレン監督の『それでも恋するバルセロナ』かな。堅実な常識人のベッキーと、奔放に自由を求めるクリスティーナの二人の女性の恋の物語。真似をしたくても出来ないのが残念だがスペイン人男性の女性の口説き方はなかなか見事。ペネロペ・クルスの存在感が圧倒的だった。
しかし何と言っても今年の一番は何人かの同窓生と思わぬ再会が出来たこと。このコラムの縁で互いがテニスを趣味にしている事が分かったり、飲み屋でばったり会って互いに囲碁が好きな事が分かったり、家の移転で帰省の機会が多かったのも幸いしたが旧交が蘇ったのは今年のダントツの一番だった。

2016年12月20日火曜日

嘉納治五郎

日露の首脳会談、成功だったと言えるのか言えないのか。二島でも返還の兆しが見えたなら成功だと言うのなら今回は残念ながら失敗というしかない。
しかしそもそも北方領土の問題に関し、日本側はもっとやる事があるのではないか。返してもらうためにはこちらとしてもそれなりの努力や工夫をする必要があろう。無人島ならともかく現に住んでいる人がいる以上、その人達をどうするのか現実的対策を用意しなければ事態が前に進まない。今の住まいを保証するのか、日本国内に別に住む場所を提供するのか。また米国に向けて北方領土には米軍を配備しないという特約を取るとか、そうした努力が水面下で行われているのかどうか知らないが、報道を見る限りでは今の日本の姿勢は棚を見上げて「ぼた餅よ落ちてくれ」と願っているような感じに見える。
さてプーチン大統領が尊敬する日本人は誰かと問われて「もちろん嘉納治五郎だ」と答えたらしい。柔道を得意とする人らしい答えだが、その名前を聞いてかつて「嘉納杯」という柔道の大会があったはずだと思った。それに優勝する事が柔道家にとって最高の栄誉であったはずだがそれは今どうなったのだろうか。
例えばテニス選手にウィンブルドンで優勝する事とオリンピックで金メダルを取る事とどちらを望むかと問えば、多くの選手が前者を選ぶだろう。歴史と伝統を背景とした権威を守ってきた結果だ。片方で柔道では嘉納杯は忘れられ今やオリンピックで金メダルを取る事が柔道家の最大の夢であるかのような状況になっている。

嘉納治五郎は柔道の国際化に腐心したと伝えられるが、このような状況は彼の望む所だったのか。嘉納杯をオープン化し全世界の柔道選手が嘉納杯を目指して精進する姿こそあるべき姿だったのではないだろうか。

2016年12月13日火曜日

誰が使うんだろう

年の瀬も押し詰まってきた。例年の事ながら本屋や文房具には来年の手帳が並んでいる。買う気もないのに何となく手にとって、新しい工夫でもあればと思ってぱらぱらめくってみるが相も変わらぬ製品ばかり。かく言う私はオリジナルの書式のものをパソコンで手作りして使っている。
それにしても既製品の手帳は必ず巻末に住所録が附録としてついているが、あれは一体誰がつかうんだろうか。手帳の一部として折り込まず、別冊になっているのは邪魔にならないよう買ってすぐ捨ててくださいという意味でもあるまいが。携帯電話の普及もあるし、いまどき手書きの住所録を使っている人は百人に一人も、いや千人に一人もいないではないか。その辺の事情は編集会議では取り上げられないのだろうか。
そんな事を思いながら近くの公立図書館へ行って見たら雑誌の書棚にJRの時刻表が置いてあった。これは一体誰が使うのだろう。かつて時刻表を「読む」事を趣味にしている人物を主人公にした推理小説があったが、そのような人が実際に存在するのだろうか。少なくともどこかへ出かける際に電車の時刻や乗り継ぎの具合を調べるにはネットの検索が一番便利だ。そこに本としての時刻表の出る幕はないように思えるのだが。
昨今の技術革新で生活の様式が大きく変わったが、中でも一番変化の大きい分野が情報に関する分野ではないか。百科事典は軒並み廃刊に追いやられた。電子書籍の出現で出版も苦しい状況に追いやられている。そんな中で健闘している手帳や時刻表には敬意を表するべきなのかも知れない。

そう言えば先日ホームセンターで炭団(タドン)が売られているのを見た。炬燵の恩恵に浴さない掌を温める手段として火鉢が復活しているなら嬉しい事だ。

2016年12月6日火曜日

政策とテニス

選挙期間中のトランプ氏の発言はまさに言いたい放題だった。誰だって時には思う存分言いたい事を言ってみたい。それをしないのはそんな事をしたら品位を疑われてしまうからだ。本能そのままに欲望をあからさまにしないことで人間の文化が成り立っている。
テニスをしていて同じ事を感じる時がある。思い切り力任せにボールを叩いてみたいが打ったボールは相手コートに入れないと自分の失点になるからそれが出来ない。コートの大きさの制約は言わば自制と実現可能性の制約だ。
テニスにはもう一つ条件がある。それはボールがネットを越さねばならないという制約だ。ネットの高さは十分な魅力があるかどうかの指標に例えられる。共和党の予備選の時から他の候補はテニスで言えばネットを越えないボールを打っていたようなものだったかも知れない。既存の観念に縛られて思い切った球を打てず、ボールがネットを越えなかったのだ。
ネットを越える程度に強く打たないといけないが、相手コートをオーバーする程強すぎてはいけない。政策も同じで十分に魅力的でありながらかつ実現可能なものでなければならない。
選挙期間中タブーを破ることで喝采を浴びたトランプ氏も選挙に勝利した後は発言が穏健なものに変わった。マスコミは「トランプ氏は衝撃度の強い政策を打ち出すことで支持者を熱狂させ、マスコミの耳目を集める戦略をとったが、今後は実現可能性を踏まえ、現実路線に軌道修正する事例が増えそうだ。」と言う。
トランプ氏の打った球はどうなるだろうか。強烈なトップスピンがかかって相手コートにすとんと落ちるのだろうか。それともネットの手前で失速してネットに掛け民衆の失望を買う事になるのだろうか。