ウソをつく事を強要される時の気持ちはどんなものだろうか。森友学園や加計学園の問題を巡る官僚達の歯切れ悪い答弁を聞くとその胸中を察するにあまりある。
ウソをつくのは悪い事だと言う自覚はおそらく殆どの人が持っていて、出来ればウソはつきたくないと思っている。だが時に自分の身を守るため悪いと知りつつウソをついてしまう事がある。だが、つきたくないウソをつく時の気持ちはさぞ辛かろう。
ウソについてエジソンの話を思い出した。一九二九年に起きた世界恐慌で多くの若者が職を失い、その救済策として立ち上げたある事業への採用試験として次のような設問をしたそうだ。
1)もし百万ドルの遺産を貰ったら、あなたはそれをどのように使いますか。
2)幸福、快楽、評判、名誉、金、愛情の中で、あなたが自分の一生をかけたいと思うのはどれですか。
3)死に臨んで自分の一生を振り返ったときに、どういうことでもって、一生が成功であったか失敗であったかと判定しますか。
4)どういう場合にウソをついてもよいと思いますか。
いずれも実に面白い質問だが、ウソについては皆さんはどのようにお考えだろうか。
皆さんは過去にどのようなウソをついた事があるだろうか。それは正当化できるとお考えだろうか。まさか今まで一度もウソをついた事がない、なんて人はいないでしょうね。そんな事を言ったらそれこそウソだ。
許されるウソ、それはウソがばれた時当事者が誰も傷つかない事なのではないか。ウソを言った方も言われた方もそれぞれの立場を考えるとそれなりに納得出来るようなウソ。オー・ヘンリーの短編「最後の一葉」の泣けるウソはその典型か。少なくとも国会でついて良いウソは思い浮かばない。
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