2018年3月27日火曜日

反省

某週刊誌に「安倍昭恵氏の辞書には『反省』の文字はないのだろうか」とあった。どこかで聞いたような文句だなあと思いつつ、どうして昭恵氏が反省しないといけないのか不思議だった。
天真爛漫に人の善意を信じ、その人の役に立ちたいと願って奮闘する、そのどこがいけないのか。ただ年端もいかない幼稚園児が教育勅語を斉唱させられているのを見て感涙するのは若干趣味が悪いと言わざるを得ないが。反省すべきはその彼女を利用しようとする周りの人達だろう。とは言っても自分の事業を成功させたいと、人脈をフルに活用しようとする籠池さんの気持ちも分からないではない。やっぱり反省すべきはそうした名前に負けて、自らの保身と出世欲のために節を曲げた官僚たちではないか。
「安倍昭恵夫人、ほうそれは立派な方の後援を受けておられますね。貴校の教育方針には私も賛同しますから些少ですが私財からいくらか寄付させていただきます。親戚の金持ちに似たような考え方の人がいるので、彼にも寄付を呼びかけましょう。ですが私の仕事は国家の財産を適正に管理運用する事です。この土地を不当な価格でお譲りする訳にはいきません。仮に私がそんな起案書を作ったとしても上司の決裁が下りる筈がない。それに安倍首相だって国に損害を与えるような一種の売国行為は望んでおられないと思いますよ。」と毅然とした態度を貫けば良かった。それで左遷されるような事はあってもまさか首にはなるまい。ましてや一族郎党が処刑されるような事は。
首相や大臣を初めとする政治家も反省すべし。そんな事をして俺が喜ぶとでも思っているのか、と。(思っているからするんだけどね)
前回に続き「一握の砂」から
 へつらひを聞けば
 腹立つわがこころ
 あまりに我を知るがかなしき

2018年3月20日火曜日

反骨

財務省の辞書には「反骨」という文字がないのだろうか。自らの信念に基づくとは到底思えない歯切れの悪い答弁を聞いていると可哀想になってくる。官吏に求められる素質は清廉・潔白・反骨でだと思われるがそれらはどこへ行ったか。
中国は明の初期の官僚・方孝孺は反骨の人だった。初代皇帝・洪武帝と二代建文帝に仕えた彼が三代目の永楽帝に対して取った態度には驚かされる。明の黄金時代を築いた永楽帝だが、その即位には暗い影がある。洪武帝が死んだ時その長男は既にこの世を去っていたため孫が二代皇帝建文帝として即位した。洪武帝の四男朱棣(後の永楽帝)はその頃燕王として北京に駐在し北方民族の侵略に備える役割を果たしていたが、建文帝の粛清を恐れて逆に兵を上げる。当初は流石に政府軍の勢いの方が強かったらしいが、都南京で太平を楽しんでいた軍と、北方の異民族の脅威と直面していた軍との違いで次第に形成が逆転したらしい。最後は朱棣が勝利し永楽帝として即位する。
永楽帝は官僚のトップであった方孝孺に即位の詔書の草稿を書くように命じた。そこで書かれた言葉は「燕賊簒位」。不当にも甥を殺して位を簒奪したお前に皇帝を名乗る資格はない、とでも言うのか。書き換えを命じても当然方孝孺は応じない。怒った永楽帝は方孝孺自身や方家一族は勿論、妻や母の実家の一族、さらには門人まで皆殺しにした。
我が身にどんな災難がふりかかろうと史実を曲げることは出来ないとの自負が反骨精神を支える。
日本では事実を曲げるあるいは隠蔽するかのような書き換えをした人(達?)が政府から見放されようとしている。石川啄木の「一握の砂」に次のような歌があった。
 気の変る人に仕へて
 つくづくと
 わが世がいやになりにけるかな

2018年3月13日火曜日

ビジネスモデル

ビジネスモデルというと何かカッコいいが要するに”How to make money”、下世話な言い方をすればどうやってアイデアや技術や才能を銭にするかである。
一番良く例に出されるのがテレビ放映で、受信者から視聴料を徴収するという平凡な発想ではなく、広告を流す事によって広告料でビジネスを成り立たせるというモデルが放映事業を成功させた。尤もNHKWOWOWは今でも受信料モデルに頼っているが。
スポーツや芸能界を見るとこのビジネスモデルの如何によって随分収入が違うものだと痛感させられる。
2017年度一番たくさんの年棒を稼いだのはテニスの錦織選手で推定365150万円だった。この内広告契約料が 327000万円だったそうだ。テレビのCMに出るのは勿論、試合の時着るウェアに企業のロゴマークを入れる事などがお金になる。コアとなる才能が直接稼ぐより、それを利用した広告が十倍もお金を生んでいる事になる。
他のスポーツでもこのように選手が豊かになるビジネスモデルを考えるべきだ。今パワハラ騒動で揺れる伊調馨選手が北京五輪後活動の拠点を名古屋から東京に移した時、1Kのアパートで一人暮らしをしながら男子選手との練習に励んだ、と週刊誌には書いてあった。オリンピックで二大会連続金メダルを取った人が1Kとはあまりに淋しいではないか。因みに去年二番目の25億円を稼いだ田中将大投手が暮らすニューヨークの家の家賃は月640万円だそうだ。
将棋界では藤井聡太六段の一挙手一投足に注目が集まり、彼が昼食に取ったメニューが売り切れるらしい。これは藤井六段に何らかの利得があって然るべきではないか。タイトル戦で和服を着る場合に紋の代わりに企業のロゴマークを付けるなどは駄目かなあ。まあお金が全てではないのだが。

2018年3月6日火曜日

体力差

平昌オリンピック後半、女子のマススタートの金メダルとカーリングの銅メダルには興奮した。前回、カーリングを男女同じ土俵で競わせたらどうかと書いたが、その後テレビのワイドショーなどで報道されるのを見るとカーリングの選手も筋力トレーニングが重要なメニューになっているらしい。スイープする時に筋力を必要とするのだろう。だとするとやっぱり男女が同じ土俵は難しいのだろうか。
だがちょっと待て、体力の差がどれほど勝敗に影響するものなのか。スケートのマススタートを見ると、高木菜那選手とオランダの選手の体力差は歴然としている。その差は下手をすると男女間の差くらいあるのではないかと思われた。それだけの差を高木選手は戦略と戦術で克服して見せた。カーリングなら戦略と戦術が勝敗を左右する割合がもっと大きいはずだ。確かにスイープに体力を必要とするだろうが、石を手放す時の微妙な匙加減はむしろ女性の方が得意なのではないか。私としては是非カーリング男子の優勝チームと女子の優勝チームで戦ってみて欲しかった。決して一方的な結果になる事はないと思う。
そもそもスポーツにおいて体力差がものを言うのはある程度やむを得ない事なのだが、単純な体力差だけで勝負が決するのでは味気ない。いかに知略でその差を克服するかという点にスポーツの醍醐味があると思う。相撲は今でも小兵が大きな力士を負かすシーンがあるし、柔道もかつては体重別に分かれてはいなかった。ボクシングは流石に体力差を覆すほど知略に活躍の場が残されていないようだ。ひょっとしたら日本発祥のスポーツには知略が活躍する余地をたくさん残しているようなそんな特徴があるのではないかと思うのは単なる身びいきなのだろうか。