2019年3月26日火曜日

努力


ドラフト四位で入団して世界一の安打記録を残したイチローの引退会見を見て思った。努力は人を裏切らない。ん?本当にそうだろうか。確かにイチローの場合、努力は彼を裏切らなかった。しかしその陰で努力が報われずに涙に暮れた人も数多くいるのではないだろうか、と。

「期待はずれのドラフト一位逆境からのそれぞれのリベンジ」(元永知宏著)という本がある。ドラフト一位指名という栄光を引っさげてプロ野球界に入りながら、華々しい活躍の出来なかった人達の努力とその後が描かれる。彼等は決して努力を怠ったわけではなかった。むしろ人一倍の努力をし、逃げ出したくなるほどの猛練習を重ねている。そして怪我や故障に泣かされ、努力をしたくても出来なくなってしまった、そんな人もいる。

イチローと同期のドラフト一位は田口壮だった。彼もイチローに負けない位の努力を重ねたに違いない。しかもスカウトの眼が正しければ才能も素質もイチロー以上のものを持っていたはずだ。努力は気まぐれな女神なのだろうか。

ここで急に卑近な例になって申し訳ない。私事で恐縮だが、今回の帰省の目的の一つは月一回平田で開かれる「ジャズで遊ぶ会」でピアノを弾く事だった。今度こそはノーミスでと、十分に練習したつもりで臨んだが、やっぱりトチってしまった。そもそもステージに上がってピアノの前に座ると、ミスをするんじゃないかという疑心暗鬼で胸が騒ぐ。そんな自信のなさは努力不足以外の何物でもない。努力の必要最低量は自信を持つことなのだと思った。

という訳で気を取り直して次回の発表に向けて新しい曲に挑戦を始めたところである。努力の女神は振り向いてくれないかも知れない。しかし努力をしないで成功をつかんだ人がいない事だけは真実なのだから。

2019年3月19日火曜日

英数国理社


中学の頃学校では九つの教科があったと記憶する。英語、数学、国語、理科、社会、通称英数国理社の他に音楽、美術、体育、技術・家庭の四つを加えた九科目。英数国理社は主要五科目とも呼ばれ特別扱いされていた。「主要」という言葉自体、思いあがった言い方だが、ともかく力の入れ具合が違っていた。

ところが、退職して第二の人生に入ると両者の価値が全く逆転したように感じる。

数か月に一度の帰省時一人暮しで、炊事洗濯掃除針仕事を全部自分でやるようになると、技術家庭の知識のなさが悔やまれる。

週に何回かテニスで汗を流しても、年を重ねてから我流で覚えたテニスではどうしても悪い癖が抜けない。若い時に基本を体に叩き込んだ人の美しいフォームを見ると、やっぱり鉄は熱い内に打たないとと思ってしまう。

絵もそうで、旅先でさらさらと風景をスケッチする人を見ると羨ましい。

そして音楽。カラオケやバンド活動など音楽を楽しみにしておられる方は沢山いらっしゃる。先日平田のクリスタル・コーラスという混声四部合唱のサークルにお邪魔した。参加者がソプラノ、アルト、テナー、バスのパートに分かれ綺麗なハーモニーを奏でている。#やが三つも四つもついた楽譜をその調に合わせた音階名でメロディーを歌うなんて、普通の素人には出来ない技と思えた。原豊先生という優れた指導者あればこその事だろうが、平田の音楽のレベルは高い。月一回オブジェクトで開かれるジャズで遊ぶ会も併せてこのレベルの高さは、もっと知られて良いのではないか。
教育とは本来人生を豊かにするためのものだ。リタイア後英数国理社はそれにどれだけ貢献してくれたのか。もっともこの拙文を書いているのは国語と数学(論理的思考)のお陰ではあるのだが。

2019年3月12日火曜日

アポ電

三面記事に「アポ電殺人」という見出しを見た時は何だろうと思った。アポはサラリーマン時代に「アポを取る」という言い方で良く使っていたからアポイントメントの略である事は容易に想像がついたが、それが殺人と結びつかない。取引先と面会の約束を取り付ける事が一体どういう経緯で犯罪につながったのか。記事の周辺を見渡してもその言葉に関する説明がないから、世間では定着した言葉なのだろうと、自分が取り残されたような気分を味わった。
別の日ワイドショーを見ていたら「アポ電」は「犯行予兆電話」の意味なのだとか。単純に考えたら「約束電話」なのに、犯行予兆なんて意味を負わされたらアポが可哀そうに思えた。
最近こうしたカタカナ+漢字一文字の言葉が流行っているらしい。若い人と飲んでいたら「リア充」なる言葉が出てきた。前後関係からリアル+充実を略したものだなとは想像がついたが、SNS上に充実した生活を送っているかのような投稿を繰り返す人がやっかみ半分に使う言葉だとまでは思わなかった。
日本語俗語辞典というサイトを見ると「ムカ男」などという言葉もある。これは「ムダに、カッコいい、男」の略だそうだ。こうなるともうついていけない。

こうした言葉には世相によってはやりすたりがあるのだろう。思い出すのは「E電」という言葉だ。国鉄が分割民営化され、それまで一般的だった「国電」に代わる言葉として提唱されたが、定着する事なく「JR」に敗北した。(ちなみに「国電」はちゃんと国語辞典に載っていて省線の改称とある。)Eと国と字面も似ているし良いネーミングだと思ったが、首都圏にしか使えない事が問題だったのか。E電も今頃生まれていれば人気者になれたかも知れないのに、生まれて来るのが早すぎた?

2019年3月5日火曜日

宋襄の仁


中国の春秋時代、凡そ二千六百年程前の事。宋の襄公が楚と戦った際、敵の陣容が整わない内に攻めるべきだという部下の進言に対して「人の困っているときに苦しめてはいけない」と言って攻撃せず、結局楚に負けてしまったという故事にちなんで、宋襄の仁とはつまらない情け、不必要な思いやりをすること、と辞書に載っている。だが、情けや思いやりにつまらないものや不必要なものがあるのだろうか。いつでもどこでも情けや思いやりは大切なものだと思うのだが。

人と人との間における徳目は国と国との間では全く通用しないようだ。人が損得だけを基準に行動したら、何と卑しい人間かと思われる。デコレーションケーキを分けた時に、自分の取り分が小さいと言って騒ぎ立てたら軽蔑の対象になるだけだ。ところが国家間の交渉はいつも損得だけを基準に行われるようだ。小さな無人島を、資源もないし、本当は我国のものだけど貴国との友好のためその島は譲ります、などという政治家がいたら国民全部から総スカンを食らうに違いない、襄公のように。こう考えるとそもそも国家に徳目などあるのか疑わしくなる。

唯一自由貿易だけは徳目に加えて良さそうだ。

天国と地獄の比較をした小話がある。地獄ではテーブルに美味しい料理が沢山盛り付けられているが、各人の箸が長すぎて、誰も目の前の料理を口にできない。天国はどうか。美味しい料理が沢山あるのは当然で、箸も同じように長い。ただ、違いは各人がその長い箸を使って互いに向かい合う人の口に料理を運んでいると。
この話、自由貿易と保護貿易の例えにも使えると思うがどうだろう。経済圏を囲い込んで他を排除しようとするのは結局どの国のためにもならない事は歴史が証明している。トランプさん、そうですよね。