2021年5月25日火曜日

参謀

 新型コロナ対策に於いて、所謂専門家と言われる人達の果たすべき役割は何なのか?政治家に緊急事態宣言を発出させた事を自分らの功績であるかのように振舞っておられるのを見ると、何か勘違いがあるのではと思えてならない。彼等の役割はバカ殿様を諫める爺ではないはずだ。強いて言えば新型コロナと戦う武将に作戦を与える参謀というべきではないか。

豊臣秀吉における竹中半兵衛であったり黒田官兵衛であったり。彼等は秀吉の戦いの勝利に貢献した。しかし残念な事にコロナとの戦いに専門家先生達は負け続けている。何故なら「これから勝負の二週間」とか「この三週間が山場だ」とか何度も言われて、そのいずれもで事態は一向に改善していないからだ。国民の自粛が十分でないからだ、とでも言うのか。それはまるで参謀が「兵隊が言う事を聞かないから勝てない」と言うのと同じだ。

彼等の仕事は勝利のイメージを描き出し、それに向けての作戦を考える事だ。決して緊急事態宣言を出す事ではない。むしろ緊急事態宣言(それは一種の敗北宣言とも言える)を出さなくても良い状態を作り出す事のはずだ。

勝利のイメージとしては恐らく三つある。一つは天然痘の様に完全に撲滅する事。これは多分無理だろう。二つ目は百年前のスペイン風邪のように集団免疫が成立して感染と発症が押さえられる事。そして三つは結核の様にワクチン(BCG)や特効薬(ストレプトマイシン)が出来、治療法が確立する事。

結核は今でも年間一万五千人程度の新登録結核患者(発症者か?感染者はその数倍かも)が出て、うち約二千人の死者が出ているらしい。それだけ恐ろしい病気だが、毎日感染者数が発表される訳でもなく、その予防のために街が閉鎖されたりする訳でもない。それが収束した状態と言えるのではないだろうか。

2021年5月18日火曜日

五輪

数年前「お・も・て・な・し」で五輪開催地が東京に決定して国中が歓喜に湧いた時、最近のこの状況を予想した人がいたろうか。今や五輪は完全に招かれざる客になってしまった。

要因は様々あるが「責任と報酬の非対称性」が最も根本的な問題ではないか。一般的には責任が重ければ重いほど成功の暁に得られる報酬も高くなり、責任を負わない者は僅かな報酬に甘んじなければならない。しかし五輪に関しては開催とその成功の責任を一方的に開催地の政府・自治体が負い、その成果として報酬の大部分(放映権収入など)をIOCが享受する。今までは五輪開催が成功すれば沢山の外国人が観客や旅行客として訪れ、開催地の経済を潤したから問題が表面化しなかっただけだ。

テニスの四大大会などは興業の主体がはっきりしていて開催に関する責任と報酬が一体化しているから去年のコロナ禍でも大きな混乱なく意思決定が行われ、全英は中止、他の大会はそれぞれの対策を行った上で開催された。その際ATP(男子プロテニス協会)やWTA(女子テニス協会)がどのような関与をしたのか知らないが、恐らくは責任も権限もない立場で静かに見守ったのではないか。IOCも本当ならATPWTAのように、世俗的利害を離れ、大会の権威を保証するだけの立場に留まるべきなのだと思う。

そもそもIOCは優勝者への賞金を出すわけでもなく(テニスの四大大会では優勝者は約三億円の賞金を得るが、五輪では名誉の象徴としてメダルが授与されるだけ)、大会の安全性に責任を負う訳でもなく、何故多額の収入だけを得るのか。これだけ権威のある大会にまで育てた偉業は認めるが、ならばその報酬は苦労して五輪を育てたクーベルタン男爵の子孫に支払われるべきだろう。ボッタクリ男爵にではなく。

2021年5月11日火曜日

敬意

 無聊を託つ日々、読書三昧の合間にテレビを見ると、民間企業のコマーシャルに混じって島根県のメッセージが流れた。曰く「感染した人に対する非難中傷や差別的な対応は慎みましょう。」そうだ、その通りだ、と内心拍手を送ると共に、敢えてCMの枠を買ってまでそれを訴える事態の深刻さを思った。

そんな中、あるローカルニュースが耳目を惹いた。岡山の閑谷学校で論語の講義が行われたという。そこで教えられた事が「礼とは人を敬い誠実な態度で接する事だ」と。誠意と敬意で人と接すべし、とはまさに私の持論で、前々回の「解決金」でも書いたばかりだ。ただ私の場合少し軟弱で、誠意はともかく敬意は全ての人に対して向けられる訳ではなかろう、と思っていた。

誠意は完全に個人の問題であって、相手がたとえどんなに極悪非道の人間であっても、それに対して誠意を持つかどうか100%こちら側の問題である。そして極悪非道に対して誠意を持つことの格好良さは時代劇や西部劇のテーマにもなっている。

一方の敬意はどうか。しょっちゅう約束を破ったり、責任逃れの言い訳を繰り返したり、そんな人に対しては敬意を払いたくても払えないのが人情だろう、と思っていた。ところが論語は敬うべき相手の資質を問うていない。

その時、恐れ多くも昭和天皇が脳裏をよぎった。昭和天皇は「雑草という草はない」と仰った。つまり昭和天皇は雑草に対しても敬意を持って接しておられたのだ。雑草に対しても敬意を持てるのは昭和天皇の人となりの高潔さを物語るのではないか。梅や桜を愛でる事は誰でも出来る。しかし相手の資質如何に拘わらず敬意を持てるのはその人の器の大きさにかかっている。敬意も結局誠意と同じで自分の問題であったのだ。


2021年5月4日火曜日

県外者

 県外者として肩身の狭い思いを強いられている。

飛行機の早割りチケットを予約した時は第三波が収まった頃で、まさか今のような第四波がすぐに来ようとは思っても見なかった。チケットのキャンセルも出来ず、予定通りの帰省を敢行したが出雲地方の新型コロナへの警戒心の強さに驚いた。東京都心の様子は知らないが、少なくとも私が住む埼玉の田舎の町よりは遥かに強い。羽田空港では搭乗前の検温もなかった。これだけ強い警戒心あればこそ、単位人口当りの感染者数が少なくて済んでいると言う事か。

それにしても県外者が全て保菌者であるかのような報道には違和感がある。ニュースでは新規感染者数の発表と同時にその中で数日以内に県外渡航歴のある人がいたら必ずそれが発表される。県外へ出ることが如何に恐ろしい事かを印象づけるかのように。これが行き過ぎるとアメリカでのアジア人排斥運動に似た事態を招きかねない。

去年の今頃は「正しく恐れろ」と良く言われたがあの言葉はどうなったのか。感染者を犯罪者の如く扱うのも正しく恐れているとは思えない。感染源にでもなったりしたらあたかも殺人でも犯したかのような扱いだ。ウィルスはどこにいるか分からない。細心の注意を払っても感染する事もあるだろう。感染した人に対しては労りや慰めの言葉を掛ける分でも、非難を浴びせる筋合いではない。幕末にはコレラや麻疹が大流行したと聞く。あの時は感染した人に辛く当たるような事があったのだろうか。コレラや麻疹の方が新型コロナより恐ろしい病気のはずだが。

幸い県外者と言っても出雲弁は母国語だし、肌の色も周りと同じでアメリカのアジア人にはならずに済んでいる。ここは部屋の模様替えと庭の草取りに専念する好機と考える事にしよう。