無聊を託つ日々、読書三昧の合間にテレビを見ると、民間企業のコマーシャルに混じって島根県のメッセージが流れた。曰く「感染した人に対する非難中傷や差別的な対応は慎みましょう。」そうだ、その通りだ、と内心拍手を送ると共に、敢えてCMの枠を買ってまでそれを訴える事態の深刻さを思った。
そんな中、あるローカルニュースが耳目を惹いた。岡山の閑谷学校で論語の講義が行われたという。そこで教えられた事が「礼とは人を敬い誠実な態度で接する事だ」と。誠意と敬意で人と接すべし、とはまさに私の持論で、前々回の「解決金」でも書いたばかりだ。ただ私の場合少し軟弱で、誠意はともかく敬意は全ての人に対して向けられる訳ではなかろう、と思っていた。
誠意は完全に個人の問題であって、相手がたとえどんなに極悪非道の人間であっても、それに対して誠意を持つかどうか100%こちら側の問題である。そして極悪非道に対して誠意を持つことの格好良さは時代劇や西部劇のテーマにもなっている。
一方の敬意はどうか。しょっちゅう約束を破ったり、責任逃れの言い訳を繰り返したり、そんな人に対しては敬意を払いたくても払えないのが人情だろう、と思っていた。ところが論語は敬うべき相手の資質を問うていない。
その時、恐れ多くも昭和天皇が脳裏をよぎった。昭和天皇は「雑草という草はない」と仰った。つまり昭和天皇は雑草に対しても敬意を持って接しておられたのだ。雑草に対しても敬意を持てるのは昭和天皇の人となりの高潔さを物語るのではないか。梅や桜を愛でる事は誰でも出来る。しかし相手の資質如何に拘わらず敬意を持てるのはその人の器の大きさにかかっている。敬意も結局誠意と同じで自分の問題であったのだ。
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