2022年1月25日火曜日

本物である意味

 絵画の価値はその構図と色彩の妙にあり、それが同じなら本物も偽物もない、と前回書いた。それは暴論だと言われる方も居よう。ならば聞きたい、小説はどうか。小説の価値は言葉のつながりが生む感動にあって、それ以外にない。作者の自筆原稿であろうが、活字になったものであろうが、言葉のつながりが同じなら本物とか偽物とか全く議論にすらならない。最近は電子書籍や朗読などの形式も現れた。

本物でなければ意味がない物とはどんな特徴があるのだろう。

去年三月、米ツイッター社の創業者が最初にツィートした文が約三億円で落札された。「just setting up my twttr」とたった五つの単語からなる文章に過ぎない。ワープロで打たれた物だから同じ物をいくらでもコピー出来るし、それ自体が別に人に感動を与える訳でもない。ブロックチェーン技術を応用したNFT(ノンファンジブル・トークン)として本物であると保証されている、という事以外に価値を見出すのが難しい代物だ。そんな物に三億円も出そうと言う人の気が知れない。

この落札者にしろ、絵画に本物性を求める人にしろ、対象の物の価値そのものよりもその転売性に着目しているのではないかと思えてならない。いつか誰かがもっと高値で買いたいと言うだろうから買っておこう、と。本物志向の向こう側には所有欲や金銭欲という邪な願望が見え隠れする。

本物の価値が絶対だというものもある。前回書いた人との接触もその一つ。五年前大阪の東洋陶磁美術館で見た北宋汝窯青磁水仙盆もそうだった。同じ物をと乾隆帝が作らせた清代の青磁水仙盆も一緒に展示されていたが色合いが微妙に違う。皇帝権力をもってしても再現できなかった天青色の気高さこそ本物の真骨頂だった。人の抱擁の貴さも同じだと思う。

2022年1月18日火曜日

本物と偽物

 

正月気になったのがメタバース(仮想空間)についてのニュースだった。ラスベガスでの展示会CESでは視覚や聴覚だけでなく触覚すらも再現するものが現れたらしい。ゴーグルのような大きな眼鏡を掛けて仮想空間で銃を打ち合うゲームに興じる人が相手の弾が当たると痛みを感じたりもする事が報道された。将来的には特殊な手袋を嵌めてテレビ会議の相手と握手したり、特殊なシャツを着て遠距離恋愛の恋人と抱き合ったする事も出来るようになるかも知れない。しかし人との接触という感動が仮想空間という偽物で代替できるものなのか。

絵画鑑賞なら偽物でも足りる。伊藤若冲の動植綵絵という傑作は上野で公開された時、五時間待ちの大行列になったが、偽物で良いなら京都は相国寺の承天閣美術館で待ち時間ゼロですぐ見れる。偽物と言っても高度な技術で複製した物で、本物と二つ並べて飾ってあればどちらが本物か見分けがつかないだろう。絵画の価値とはそこに描かれた構図や色彩の妙が与える感動や癒しにあるのだから、見分けがつかないのなら本物も偽物も同じだ。むしろどれだけゆっくり時間を掛けて鑑賞できるかの方を私なら重視したい。私が見た時は外国人の老夫婦と他に日本人が一人いただけで心行くまで堪能できた。日本語の解説を読めない外国人が「まあ何て綺麗な桜なの」と言っているので「いや、それはチェリーではなくピーチですよ」と教えたりもした。

絵画なら偽物で満足できても、人との接触だけは本物でなければ意味がないように思える。ミュージカルのキャッツでは孤独に悩む年老いた猫が「Touch me」と悲痛な声で唄う。彼女がメタバースで思い出の人と抱擁出来たらその孤独感がいくらかでも癒されるのだろうか。いやむしろ一層深い孤独に襲われるように思えてならない。

2022年1月11日火曜日

 皆様良い年をお迎えの事と思います。今年も当新聞並びに当コラムをご愛顧の程お願い申し上げます。

関東の元日は風は強いものの気持ち良く晴れた。初詣やその他の用事を早い内に済ませ、お昼からお屠蘇を頂く事にした。父が昔使っていた金杯に大吟醸酒を注いで唇を盃に近づける。盃を持つ親指と中指にお酒がひたひた触れる感触がなんとも言えない。やっぱりお酒は盃で飲むものだと思うのがこの瞬間だ。

しかし世の中を見るとお酒を飲むのはぐい飲みが主流で、中にはコップ酒なんて人もいる。それは多分注ぐ時にその方が便利だからだろう。盃はその形状からしてそっと注意して注がないとすぐに溢れ出てしまう。世界中どの民族もお酒は好きで大切にして、溢れ出させるような事はしたくなかったようだ。その証拠にビールジョッキにしてもワイグラスにしても上からドボドボと乱暴に注いだとしても簡単には溢れ出ないような形をしている。私の知る限り日本の盃だけがこの様な一見不便な形をしている。

愚考するに日本文化は人が行儀良くなる仕組みを内在しているのではないか。将棋の対局姿勢を見てそう思った。昨今NHKの将棋トーナメントはコロナ対策の一環として対局者の間に仕切りを設けてテーブルの上に薄い盤を置いて両者が椅子に座って対峙する形式で行われる。そして時々見かけるのは対局者がテーブルに肘をついて考える姿である。その姿を私はあまり美しくないと思う。和室で座布団に正座して対局する時、そんな姿勢は取れなかった。正座して背筋がピンと伸びている姿は見ていて美しい。お酒だって片手で乱暴に注ぐよりも、両手を添えてお淑やかに想いを込めて注ぐ方がずっと美しいではないか。

正月のお屠蘇を頂きながら日本文化の偉大さに思い至った新年でした。