2022年7月26日火曜日

センシュ防衛:トライアングル第776回

 某民放のニュース番組で先の参院選の総括をやっていた。保守的政党が票を伸ばした、としてそれらの党の政策を紹介する中で「この党は国防に関してセンシュ防衛を主張しています」という。ほう、保守系にしては珍しいなと思ってフリップを見るとそこには「先手防衛」と書いてあるではないか。「センシュ防衛」と言えば普通は「専守防衛」だろう。先手必勝とばかりに先に攻撃を仕掛けるような意味合いの「センシュ防衛」があるとは思ってもみなかった。

ウクライナ問題を契機に敵基地攻撃能力とか物騒な言葉が飛び交っている。机上の理想論だと笑われる事を覚悟で持論を言えば、須く軍隊とは自国の防衛に専念すべきで、決して国境を越えた行動はすべきではないと思っている。戦争とはある国の軍隊が他国の軍隊と接触して行われるのだから、軍隊が国境を越えない限り戦争は起こり得ない。

軍隊が国境を越えるのは三つのパターンがあって、自国の領土を拡大しようとする時、他国にいる自国民を保護しようとする時、他国民を圧政から助けようとする時。この内、最初のケースは言語同断で、こんな不埒な国から自国を守るため軍隊は必要だ。最後のケースはもうそういうお節介は止めた方が良い。アメリカがイラクの国民を解放しようとしたが結果は必ずしも好転しなかった。北朝鮮の国民も可哀そうだが自力で頑張ってもらうしかない。

一番やっかいなのは自国民の救済で、過去の戦争を見ると殆どの戦争がそれを口実に始まっている。戦争をなくす事を至上命題にするなら、自国民の保護は現地の警察にお願いするしかないのではないか。現地の警察が信頼できないような国とは付き合うべきではないし、それでも行きたければ各自が自己責任で行き、脱出するのも自己責任で。そうでもしなければ戦争はなくならない。

2022年7月19日火曜日

宗教:トライアングル第775回

 恥ずかしながら特定の宗教に深い敬虔な気持ちを抱いた事がなく、「神を信じる」という事が一体何を意味しているか未だに明解な答えを出せないでいるのだが、それでも一つだけ自らの行動の指針にしている事がある。それは、もし死後の世界があればそこでは屹度自分の人生をビデオに収めたものを繰り返し見せられるのではないか、と。人の道に悖るような事をして自分の醜い行いを何度も見せつけられるのは耐えられないから言動には気を付けよう、と言うのが私の宗教心と言えば言えるのかも知れない。

安倍元首相がもしあの世で犯人の供述を聞いたら、どう思うのだろうか。父と兄を自殺で失い、一番近くにいて欲しい母も宗教団体に盗られ、人生の可能性のかなり大きな部分を毀損してしまった境遇にいささかでも同情の念を持つだろうか。そして自分が旧統一教会との関係を疑われるきっかけとなったビデオレターにいささかでも後悔の気持ちを持つだろうか。我々下々と違ってどんな情報にもアクセスできる立場にいた人だから「まさかそんな団体とは知らなかった」とは言えない筈だ。

勿論、背景がどうあれ殺害は正当化できるはずもない。それは人が他人の人生を奪う事は絶対に許されないからだ。今回の犯人に私が同情してしまうのは、彼も人生を奪われた被害者の一人に見えるからだ。

宗教団体への献金は個人の自由意志でなされる事だから団体側に責任はない、という理屈は一応成り立つ。しかし自由意志には誇りが伴うはずで、堂々と公表されて然るべきだ。出雲大社の遷宮の折には献金者とその額が境内に張り出す形で公表された。自分の名前がその中にある事を献金者はその家族も含めて誇りに思った筈だ。献金の公表と誇りの有無が宗教団体のいかがわしさの有無に関係しているような気がする。

 

2022年7月12日火曜日

民主主義の危機:トライアングル第774回

安倍元首相が凶弾に倒れた。たまたま小杉隆著「世襲議員のからくり」という本を読んでいたのは何かの縁か。安倍氏に対する批判も書かれているが、今それには言及しない。ご冥福をお祈りすると共に、周りにいた人達に累が及ばなかった事をせめてもの救いとしたい。

政治家の暗殺事件と言えば、浅沼稲次郎氏が日比谷公会堂で刺殺された事件を思い出す。ラジオから流れる緊迫した声に大変な事が起きたのだと子供心に思ったものだ。あの時とは違い、万人がカメラマンになって様々な視聴者投稿画像が寄せられるが、しかし決定的瞬間が報じられないのは何故か。浅沼事件では犯人が刃物を脇腹に突き刺すまさにその瞬間が写真で報じられたのに。

今回、犯人が安倍氏の背後から銃を撃つ様子を捉えた動画が流れた。一発目の音に驚いた安倍氏が後ろを振り返り、犯人が再度狙いを定め二発目を撃つ、その瞬間で動画は止まってしまった。別の動画でも銃撃が致命傷を与える瞬間は巧妙にカットされていた。安倍氏が仰向けに横たわる写真も出たが、あちこちボカシだらけだ。まるで「ここまでは下々にも知らせて良い情報。これ以上はダメ」という検閲が入っているかのようだ。警察の会見でも「詳細は差し控えます」が当然のように頻発する。その情報を公にする事で支障が出るとも思えないような事柄でも。当然それらの情報にフルアクセスできる層がいる。

「由らしむべし、知らしむべからず」は民主主義の敵だ。情報の透明性こそ民主主義を支える一番の柱のはず。前述の「世襲議員のからくり」にはテレビ局に子女を入社させている政治家の名前が多数列記され、政界と報道の癒着が懸念されている。その癒着が情報の囲い込みを産んでいるとしたら、それこそ最大の民主主義の危機ではないか。

2022年7月5日火曜日

アンゲラ・メルケル:トライアングル第773回

 先日NHKでメルケルさんのドキュメンタリーを放送していた。トランプ前大統領に言及する時には決して「トランプさん」などとは呼ばないが、一国の前首相をさん付けで呼ぶなんて女性に対する偏見があるからではないか、とウーマン・リブの人達からは非難されそうだ。だが、そういう事に目くじらを立てないところにメルケルさんの真骨頂があると思う。今回は彼女の誠実さに対する親しみと敬愛の印しとしてお許し願う。

番組の白眉は2005年彼女が初めて首相に選ばれた時の記録映像だった。選挙前は野党だったメルケルさんが率いるCDUは第一党にはなったものの過半数は取れず、当時のシュレーダー首相が党首のSPDと連立を組む事になった。その時の交渉の様子が討論会としてテレビで公開されていたのだ。シュレーダー氏はメルケルさん(当時51歳)の経験不足を軽く見て「学校の生徒会じゃないんだから」と、連立政権の首相は俺に決まってるだろう、みたいな発言をした。女性に対する偏見が随所に垣間見られた。

ガラスの天井などを持ち出す人なら、こめかみに青筋を立てていきり立つだろう。だがメルケルさんは冷静に反論した。「まるで選挙で勝ったかのような発言にとても驚いてます。いいですか、選挙で第一党になったのは私たちの政党なんですよ。」と。その発言には「男だから、女だから」という発想は微塵もない。男女平等が当然の前提としてあるのだ。

あの後シュレーダー氏はあの映像が流れる度に赤面し、自己嫌悪に苛まれたに相違ない。

ジェンダー・フリーにしろLGBTQにしろ、差別をなくす一番の近道は、差別撤廃を声高に叫ぶ事より、差別のない事を前提に堂々とした態度で自分の考えを冷静に理路整然と述べる事にあるのではないかと思った次第。