恥ずかしながら特定の宗教に深い敬虔な気持ちを抱いた事がなく、「神を信じる」という事が一体何を意味しているか未だに明解な答えを出せないでいるのだが、それでも一つだけ自らの行動の指針にしている事がある。それは、もし死後の世界があればそこでは屹度自分の人生をビデオに収めたものを繰り返し見せられるのではないか、と。人の道に悖るような事をして自分の醜い行いを何度も見せつけられるのは耐えられないから言動には気を付けよう、と言うのが私の宗教心と言えば言えるのかも知れない。
安倍元首相がもしあの世で犯人の供述を聞いたら、どう思うのだろうか。父と兄を自殺で失い、一番近くにいて欲しい母も宗教団体に盗られ、人生の可能性のかなり大きな部分を毀損してしまった境遇にいささかでも同情の念を持つだろうか。そして自分が旧統一教会との関係を疑われるきっかけとなったビデオレターにいささかでも後悔の気持ちを持つだろうか。我々下々と違ってどんな情報にもアクセスできる立場にいた人だから「まさかそんな団体とは知らなかった」とは言えない筈だ。
勿論、背景がどうあれ殺害は正当化できるはずもない。それは人が他人の人生を奪う事は絶対に許されないからだ。今回の犯人に私が同情してしまうのは、彼も人生を奪われた被害者の一人に見えるからだ。
宗教団体への献金は個人の自由意志でなされる事だから団体側に責任はない、という理屈は一応成り立つ。しかし自由意志には誇りが伴うはずで、堂々と公表されて然るべきだ。出雲大社の遷宮の折には献金者とその額が境内に張り出す形で公表された。自分の名前がその中にある事を献金者はその家族も含めて誇りに思った筈だ。献金の公表と誇りの有無が宗教団体のいかがわしさの有無に関係しているような気がする。
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