2024年5月28日火曜日

時代考証

 レンタルショップでDVDを借りてきて「軍師官兵衛」を一気見している所である。大河ドラマと言えばNHKが最も力を入れて製作している番組の一つだろうからよもや間違いはあるまいが、でもちょっと首を傾げたくなるシーンがある。

秀吉がキリシタンの危険性に気付いて禁制令を出す場面、「定」と書かれた命令書がこう映し出された。「日本ハ神國たる処きりしたん國より邪教を授候儀太以不可然候事」最後の方が漢文調になっているところなど如何にもそれらしく見えるが、この文章が書かれた天正15年には絶対に「きりしたん」などとは書かれなかったであろう。今我々が使っている平仮名は明治33年の「小学校令施行規則」で定められたもので、それまでは変体仮名が一般に使われていた。私が月に一回通っている「古文書講座」の文書でも、タの音を表現する文字は「多」を崩したものが殆どで、「太」を崩した「た」に出会う事は全くない。変体仮名に不慣れな視聴者が沢山いる事を考慮しての事と思われるが、ならば「切支丹」と漢字で書けば良かった。

この禁制令を民衆に知らせるための高札が出て来るシーンもあるが、これもおかしい。文字は行書で書かれていて読み取れないのだが、項目が四つになっているのだ。古文書講座で習った所によると、高札には奇数条項と言って項目は奇数にするのが一つのきまりだったそうだ。確かに17条の憲法も五か条の御誓文も奇数だし、家康の武家諸法度も13条、信長が足利義昭に出したのも17か条の意見書だ。時代考証を担当した人が奇数条項を無視したのはどういう理由だろう。

最後の極めつけは秀吉に従わない島津を討つため九州へ出征する官兵衛に対して妻の光(てる)が掛けた言葉、「道中ご無事で」。これから戦争に行こうという人にそれはないだろう。



2024年5月21日火曜日

復仇

 連日ニュースでガザの惨状を眼にすると、イスラエルもいい加減にしたらどうかと思えてならない。そんなイスラエルを支援し続ける政権に対する抗議の意味で、アメリカの外交官や国務省職員が辞職する事例が相次いでいるとか。4月に入ってから20人以上が、平和的手段での解決を提案しても相手にされないとして辞職したらしい。

中東問題に詳しい放送大学の高橋和夫教授はイスラエルとハマスの戦いはニューヨーク・ヤンキースと荒川少年野球団の試合のようなものだと言った。確かに去年の107日ハマスが1回の表の攻撃で数百人の人質を取ったが、その後イスラエルの1回裏の攻撃は二桁得点してもまだ一つのアウトも取れない、というような感じだ。

ナチス・ドイツのホロコーストを記憶する世代はイスラエルに同情的だ、などという指摘もある。確かにあのユダヤ人虐殺は酷かったが、それを行ったのはナチスであって、イスラエルがドイツに仕返しするなら兎も角、どうしてそのツケをパレスチナ人が払わないといけないのだろう。

人間なら「復讐」するようなケースを、国家間では「復仇」というらしい。ある国が不法な行為をした場合、他国が同等に不法な行為で報いる事で、今イスラエルがやっている事はまさにそれに当たる。報復行為を武力でやる場合を「戦時復仇」というらしいが、それが認められるためには三つの条件があるそうだ。「事前通知義務」「過度な懲罰の禁止」「人道的配慮」の三つ。最初の通知義務は確かに避難勧告などを出しているから守っていると言って良いかも知れないが、他の二つはどうだろう。

107日の行為に対する復仇だと思えばあまりに過度な懲罰ではないか。まさかイスラエルは80年前のホロコーストに対する復仇だと思ってないか。

2024年5月14日火曜日

辛抱

 大河ドラマ「軍師官兵衛」は2014年の放映である。その撮影が行われたのは前の年の2013年だから、子役として出ていた今年20歳になる出演者は当時9歳だった事になる。

最近急に歴史に興味を持ちだした息子が借りて来た「軍師官兵衛」のDVDを視た。凶悪事件の実行犯として逮捕された若山耀人は官兵衛の幼少期を、そしてその子長政の幼少期を演じていた。科白もあれば、笑顔も作り泣き顔にもなる。かなりの演技力と見た。週刊誌報道によれば500人のオーディションを勝ち抜いたというから、それも当然だろう。

9歳で大河ドラマの準主役に抜擢されるというのは役者人生として順風満帆な出だし、いや誰もが羨む出だしと言って良い。それがたった10年でこうも暗転するものなのか。ネットで検索すると、彼は数多くのテレビドラマ・映画に出演し、最後の作品は2018年に発表されている。これだけ多くの出演依頼があれば、収入も相当あったろうし、年齢からしてお金の使い道も限られたものだった筈。僅かな金の誘惑で凶悪事件に関与しなければならない程お金に困ったのが不思議に思える。それともあまりに順調で恵まれた出だしに慢心が芽生え、かつての自分の栄光がまぶし過ぎて自暴自棄になったのか。

一生懸命努力しても成功を勝ち取れない人がいる一方で、折角のチャンスを棒に振ってしまう人がいる。成功への階段を踏み外す事なく登り続けるためには思っている以上に辛抱が必要なのだろう。それが出来た人が大河ドラマの主役になる。黒田官兵衛も豊臣秀吉も徳川家康もその人生は辛抱の連続だったに違いない。

若山耀人は今頃、荒木村重や明智光秀に自らをなぞらえて、どこで何を辛抱すれば良かったかを反省しているだろうか。

2024年5月7日火曜日

伝統

 先週のコラムでは、男女平等と伝統を測りに掛けて前者が重要である事は論を待たないと言った。でも後で良く考えてみると本当にそれで良いのか不安になって来た。男女共学の問題に関してはそれで良いのだが、それを全ての問題に敷衍した場合にはどうか、と。

男女平等と伝統、この二つのキーワードから連想したのは皇位継承の問題だ。皇室典範の定める所では天皇になれるのは男系男子に限られる。女系に門を閉ざしている点で明らかに男女平等に反している。また、その根拠と言えば、ずっと昔からそうだったから、つまり伝統だからだろう。では伝統より男女平等の方が大事なら今すぐにでも女系天皇を認めるべきなのだろうか。

天皇は男系であって欲しいと願っている私は、自分のダブルスタンダードに悩んでしまった。ダブルスタンダードは最も恥ずべき破廉恥な態度だと思っている私は、当初の論を見直し、男女平等や伝統には色々あって、どちらが重要か一概には言えない、と思う事にした。

男女平等に良い悪いがあるとは思えないから、伝統の方に大事なものとそうでないものがあるのではないか。伝統とは長い年月人々がそれを是として守り続けて来たものだ。どれだけ多くの人に、どれだけ長くの時間に渡って守られたのかが伝統の価値を測る基準になると言って良い。男女別学は明治以降の事だからせいぜい百数十年の歴史で、現在男女共学の学校が殆どである事からそれを是とする人の数も多数とは言い難い。

一方で男系による皇位継承は千五百年程度続き、過去何度か女性天皇は生まれたが、男系だけは守られて来た。その伝統は天皇制そのものであると言っても過言ではなく、それを否定して女系を認めるのは天皇制の存在意義を否定するのと同じように思える。