何か月かに一度帰省する度に庭を見てため息がでる。庭一面に草が我が物顔で繁茂しているからである。その草にもきっと名前があろうが、知らないから不本意ながら雑草と呼ばせてもらう。
それにしてもこれら雑草の生命力には驚かされる。コンクリートの小さな割れ目を見つけてはそこに根を張っている。除草剤を撒いて駆除したつもりでも年が明けると別の種類の草が、今度は俺の番だとでも言うような顔で居座っている。その憎らしいまでの生命力を見て、フト「これは神の大きな慈悲なのかも知れない」と思い当たった。
地球上の生命は大きく植物と動物に分かれる。植物は光合成する能力を持っていて、太陽の光と空気中の炭酸ガスと地中に含まれる水から有機物を合成し、それを栄養分として生きていく事ができる。しかし動物にはその能力がないため、植物や他の動物から栄養分を奪い取らないと生きていけない。小さな虫が草を食べ、その虫を鳥が食べ、その鳥をより大きな動物が食べ、そして食物連鎖の序列が出来た。
人間がその食物連鎖の頂上に君臨し、雑草はいわばその底辺にいる。そこで、どうだろう、もし底辺にいる雑草の生命力がか弱いものでしかなかったら。食べるべき草がなくなれば虫が生きていけなくなり、それを餌とする鳥も生きていけなくなり、そしていずれ地球上に生命がいなくなってしまいかねない。食物連鎖を持続させるためには下位にいる生物ほど強い生命力と繁殖力を持たせることが必須ではないか。
雑草の強い生命力は動物達を飢えさせないための神の御慈悲に違いない。天賦のその生命力に除草剤などと人間の小賢しい浅知恵で立ち向かおうなどとは天に唾するに等しいと思いながら、炎天下草むしりを強いられ「本当にそうかな」などとつぶやいたりするのです。
草刈前