2024年8月27日火曜日

雑草

 何か月かに一度帰省する度に庭を見てため息がでる。庭一面に草が我が物顔で繁茂しているからである。その草にもきっと名前があろうが、知らないから不本意ながら雑草と呼ばせてもらう。

それにしてもこれら雑草の生命力には驚かされる。コンクリートの小さな割れ目を見つけてはそこに根を張っている。除草剤を撒いて駆除したつもりでも年が明けると別の種類の草が、今度は俺の番だとでも言うような顔で居座っている。その憎らしいまでの生命力を見て、フト「これは神の大きな慈悲なのかも知れない」と思い当たった。

地球上の生命は大きく植物と動物に分かれる。植物は光合成する能力を持っていて、太陽の光と空気中の炭酸ガスと地中に含まれる水から有機物を合成し、それを栄養分として生きていく事ができる。しかし動物にはその能力がないため、植物や他の動物から栄養分を奪い取らないと生きていけない。小さな虫が草を食べ、その虫を鳥が食べ、その鳥をより大きな動物が食べ、そして食物連鎖の序列が出来た。

人間がその食物連鎖の頂上に君臨し、雑草はいわばその底辺にいる。そこで、どうだろう、もし底辺にいる雑草の生命力がか弱いものでしかなかったら。食べるべき草がなくなれば虫が生きていけなくなり、それを餌とする鳥も生きていけなくなり、そしていずれ地球上に生命がいなくなってしまいかねない。食物連鎖を持続させるためには下位にいる生物ほど強い生命力と繁殖力を持たせることが必須ではないか。

雑草の強い生命力は動物達を飢えさせないための神の御慈悲に違いない。天賦のその生命力に除草剤などと人間の小賢しい浅知恵で立ち向かおうなどとは天に唾するに等しいと思いながら、炎天下草むしりを強いられ「本当にそうかな」などとつぶやいたりするのです。

草刈前



約一時間の奮闘後


2024年8月20日火曜日

不公平さ

 「審判への批判は選手のためならず」に似た文言をかつてサッカーの試合でも聞いた記憶がある。「それも含めて(審判の恣意による不公平な判定がある事も含めて)サッカーだ」と。明らかに不公平な笛が吹かれた場合でも審判への批判は止めましょう、という意味に理解した。こうした審判を絶対視する言葉は多くの場合日本に不利で、西洋人に逆らうのを良しとしないという意味で使われるように思えて、つい感情的にもなってしまうのだが出来るだけ冷静にこの問題を考えてみる。

ゲームは双方に公平である事が絶対条件だが、何らかの蓋然性で不合理な不公平さが生じるのは仕方ない。例えばテニスの場合。土のコートでは選手が激しく動き回って土の表面が乱され、それによってボールのバウンドが不規則に変化する事がある。確かにそれは一方的に不利な状況だがしかし「それも含めてテニスだ」と言うのは納得できる。時々予測不能な現象が起きて選手の能力以上に勝敗を左右するような事態もゲームによっては起こり得る。それを積極的にゲームの面白さとして取り入れたのがラグビーだ。わざわざ球を楕円形にして不規則なバウンドをするようにした。

しかしゲームとは基本的に選手の能力を競うものだから、選手の予測能力を裏切るような不規則な事象はない方が良い。ましてやその不規則性が神ならぬ人間である審判に起因するものならなおさらだ。そう、審判は人間なのだから間違いもする。ならば反省や改善があって当然だろう。審判への批判を許さないような風潮は百害あって一利なしだ。

パリ五輪で見られた開催国有利の判定は、テニスに於いて味方のコートは平滑にならし、相手のコートはわざわざ凸凹にして戦っているように見えた。そこまでしてメダルが欲しいのかと呆れるしかないのだが。

2024年8月13日火曜日

審判

 今回の五輪ではバスケットボールや柔道の試合で審判の不可解な判定が目につく。特に柔道男子60キロ級の永山竜樹選手の負け判定はひどかった。

審判が「待て」の合図を出し、永山選手が力を抜いたのに相手のスペインのガリゴス選手は締め続けた。「待て」の合図が聞こえなかったというが、相手の選手が力を抜いているのだ、素人ならいざ知らず、オリンピックに出場する程の選手なら相手の様子から判断できそうなものだ。審判にしたって、力を抜いている選手を締め続けるなどと言う行為を6秒も放置するなんて!即止めに入らないと下手をすれば永山選手の選手生命が危うくなる事だって考えられた。状況から判断するに、ガリゴス選手は「待て」が掛かっている事を承知で審判が止めに入らないのを良い事に永山選手が落ちるまで締め続けたのではないか。

ワイドショーでは解説者が「審判への批判は選手のためならず」などと言っていたが、こんな審判を野放しにして良い訳がない。能力もなく、公正さもない審判には即刻退場して貰わないとスポーツの存在意義が問われる事になる。総じて柔道の審判は自分では判断できず、イアホンから聞こえる音声で動く操り人形に見える。それで良いのか。

試合が終わって、永山選手とガリゴス選手が仲良く肩を抱く写真が公開されたが、あれにも納得できなかった。謝罪や反省があったのなら兎も角、例えて言うなら、ガリゴス選手の行動は日本がポツダム宣言の受諾をした後も北方から攻め込んで、北方領土を領有してしまったソ連の行動に等しいではないか。日本の首相がソ連の書記長と国後島で肩を抱き合ったらどういう気持ちがするか。主張すべきは主張し、反省すべきは反省し、改善すべきは改善しないと、良い子を気取るだけではスポーツの未来は暗い。

2024年8月6日火曜日

号泣

 柔道女子52キロ級の二回戦で一本負けし、敗者復活戦に回る事すら出来なかった阿部詩選手は、畳を降りコーチの腕に抱かれたとたん辺りを憚らず号泣した。あれだけ感情を顕わにする選手を見たのは初めてだったので、驚きもし興味をそそられたが、まさかそれが沢山の批難を浴びる事になろうとは思わなかった。

ある知り合いがフェイスブックに「日本人として恥ずかしかった」と投稿すると、それに賛同するコメントが相次ぎ、中には「欲しい物を買って貰えない子供がダダをこねているようだ」とか「いい大人が進行の邪魔をしているからUtaコールは早く出ていけの意味だった」や「あんなみっともない姿を晒す事無く、コーチが早くバックヤードに連れて行くべきだった」なんて意見もあった。

人の考えや感じ方はそれぞれだから、色んな意見があって良いとは思うが、それにしてもあの阿部詩選手の号泣が百人が百人ともみっともないと思うようなものであったとは思わない。迷惑系ユーチューバーと呼ばれる人が目を疑うような狼藉をしたのとは訳が違う。反対意見を封じるネットの魔力を感じた。

あの号泣に私が感じたのは喪失感だった。今まで何年間も努力して追い求めて来た物が一瞬にして目の前から消えた。例えば最愛の人を亡くした時のような喪失感、それが詩選手を襲ったのではないか。子供がダダをこねて泣いているなど想像だにしなかった。むしろ我が身を翻って両親を亡くした時にもあんな号泣をしなかったなと反省したものだ。

その後ネットを見ると、辛辣な批判を繰り返す東国原氏に対して「詩ちゃん苦しんでるで… やめとこうよ」「まだ言ってんのかよ あなたもいい大人ならもうおよしなさい」という意見が寄せられているとか。ネットに良心が残っている事に少し安心した。