2024年9月24日火曜日

代表戦

 この原稿が紙面に載る頃には立憲民主党の代表は決まっている筈だ。しかし誰がなってもそう大きな影響はなさそうだ。

立憲民主党の各候補は皆が自民党の不祥事を取り上げ我々がとって変わると主張していたが、どこまで本気だったのか。自民党が怪しからんから有権者は自分等に投票する筈だと、本気で思っているとしたら随分選挙民を馬鹿にした話だ。立憲民主党が有権者から選ばれるかどうかは、政権担当能力を認めてもらえるかどうかにかかっていると思うのに。

かつて民主党の幹部達が「一度我々にやらせて下さい」と訴え、国民が彼等に政権を渡した事があった。しかし沖縄の米軍基地の問題や、尖閣諸島での中国との折衝、果てには選挙公約を破る形で消費増税を決めるなど、その政権担当能力に疑問符がついて下野した。その経緯を真摯に反省すれば政権担当能力こそキーワードだと気付くだろうに。例えば地方行政で実績を積み有権者の懸念を払拭するなどの策はないのか。

自民党の総裁選は実質的に日本の舵取りを任せる人を選ぶ選挙だから注目しているが、こちらも疑問が多い。地方活性化を訴える候補が多いが、それなら自分が地方の首長になって持論を実行してみたらどうか。金をやるから具体案は地方が自分等で考えろ、と言っているように見える。賃金を上げる、という主張もある。企業経営者なら即実行できるのだろうが、これも他人任せに見える。賃上げを実施した企業については法人税を減免するとでも言うのか。他人をあてにするのではなく、自分が何をやるかを語って貰いたいものだ。

また、意気込みを語るのに「あらゆる対策を取る」とか「出来る事は全てやる」など言われるが、これは具体的に何から手を付けるべきか分からないと自白しているようなもの。具体策を語って欲しい。

2024年9月17日火曜日

冷静になる

昨今テレビのワイドショーは兵庫県の斎藤知事を糾弾する声一色である。こんな時、斎藤知事を擁護したり、その立場に理解を示すような報道をすればおそらく視聴者から反感を買うだろうし、逆に知事の非道ぶりを暴き立てれば立てるだけ視聴率が稼げるから、各局一斉にその方向に流れる。この傾向は戦前のマスコミが国民の戦意を高揚させる勇ましい記事で発行部数を伸ばしたのにどこか似ている。しかしこんな時こそ少し冷静になる事が必要なのではないか。

ある所で小耳に挟んだ話で学問的信憑性は不明だが、怒りに駆られた時には飴玉を舐めるのが良いそうだ。糖分が脳味噌に作用し、いくらか冷静さを取り戻せるとか。私の場合は100%の白も100%の黒もあり得ない、という信念から世論とは逆の事はないかと考える事にしている。

100%悪だと思っていた林真須美死刑囚だって前々回取り上げたように考え直す余地はいくらかあるし、これ以上の悪はないだろうと思っていた光市母子殺害事件の犯人だってその弁護士が書いた本を読むと、ちょっと待てよと思わされたりする。プーチン大統領でも100%の悪ではない筈だから、彼の行動の背景や心理を考えるのは無駄ではないと思うし、同様の事が斎藤知事の場合にも言えると思う。

そんな事を考えていたら島根県の丸山知事が、斎藤知事は辞任すべきではない、という意見を述べている記事に出くわした。二人も死者が出ているのだから、その真相を究明すべきであって辞任している場合じゃない、と(725日の発言)。成程そういう意見もあるか。

今後斎藤知事に関しては様々報道されようが、怒りに流されず冷静でいたいものだ。

ところで飴玉を舐めた時その効果はどれだけ続くか。とうぶんの間、だそうである。 

2024年9月10日火曜日

ドラマと言葉

 今年の大河ドラマ「光る君へ」は舞台が平安時代で、戦国・幕末・源平・忠臣蔵といった定番とは一味違い、それなりに興味深く視聴している。しかし、あの時代の人権意識はあまりにひどく、時代を忠実に再現すると色々差し障りがあるに違いない。藤原定家は藤原道長の時代から凡そ200年後の人だが、その日記「明月記」には信じられない事が書かれているらしい。例えば天災で都の人々が多数死亡した時の事、町中に死体が散乱し臭くてしようがない、なんて事が書かれているとの事。当時の貴族の一般市民への感覚はそのようなものだったのだ。

だから時代考証に対し苦言を呈しても仕方ないかも知れないが、気付いた事を二三。一つは紫式部が執筆する時の筆運びの遅さ。行書草書は素早くスラスラ書くための書体だろうから、あんなにゆっくりと書いたはずはないのだが、どうだろう。もっと疑問に思うのは内裏の人々が皆現代の標準語で話している事だ。幕末が舞台の大河ドラマでは天皇側近の貴族はみな殊更京言葉で話しているが、今回は言葉だけは現代が舞台であるかのようだ。

ドラマを見て、それはないだろう、と思った言葉の問題は半年程前の「島根マルチバース伝」でもあった。舞台が島根という事で、ズーズー弁が沢山出てくるが、これがひどい。ズーズー弁をネイティブ・ランゲッジにしている私でも字幕をオンにしないと何を言っているのか分からない。アクセントもおかしいし、もっと方言指導を徹底すべきだった。

例えば「あるかね」なんて言ってたが、これは「あーかね」と言うべきだろう。「そげなことしてたら」も中途半端。「そげなことしちょったら」だろう。「子供の紐落とし」もそれを言うなら「帯直し」だろうと思ったが、最近はどうやら帯直しも死語になったらしい。

2024年9月3日火曜日

四人の死因

 先日某テレビ番組で和歌山毒入りカレー事件が話題に登った。過去の映像で印象に残ったものは何かという趣向で、ある出演者は当時有力な容疑者と目された林真須美氏が詰めかけた報道陣に向かって薄笑いを浮かべながら水を掛けるシーンを取り上げた。その過剰な報道の在り方を問題視したのだが、別の出演者は砒素の鑑定に関し、あの事件が冤罪ではないかとの指摘もした。最近の「マミー」という映画でも同じ事が話題になっている。

しかし驚いたのは誰もあの事件を医療過誤として認識していなかった事だ。

平成十年七月末の夏祭りで事件は起きた。当初食中毒とされた報道を見て一人の女子中学生が疑問を感じる。「えっ、カレーで食中毒ってあり?カレーって様々なスパイスを入れ熱帯地方で食中毒を起こさないように考えられた料理なのに」そこから彼女は様々な専門書をあたって考察を重ね、それを「四人はなぜ死んだのか」という本にした。食中毒の次は青酸カリが疑われ、真の原因である砒素にたどり着くまでに一週間以上の時を要した。その間、本来催吐して毒物を吐き出させるべき所を逆に鎮吐剤を投与したり、青酸カリの解毒には有効でも砒素には有害な薬剤を投与したり、そうした過誤が被害者を死に追いやった。謂わば警察・保健所・医療機関・マスコミの恥とも言うべき事件の経過が中三とは思えない筆致で克明に描かれている。

最初に読んだのはもう二十以上年も前になるので、確認のため出雲市立図書館から借りて改めて読み直してみた。本を開くと栞の紐は新刊書のように途中に丸まって収まっていた。奥付を見ると1999720日初版、同年920日第8刷とある。二か月で8回も増刷した事以上に、出雲の図書館では25年間誰も手にする事がなかったらしい事に驚いた。