2025年6月24日火曜日

不思議

 テレビや新聞での報道を見ていると、時々とても不思議な事に出くわすが、報道を見る限りではそれに対する答えが提示される訳でもなく、そもそもその事が不思議な事であるとの認識すら無さそうで残念に思う事がある。

今月の初め、経済ニュースで生命保険各社が史上最高の利益を出した事が報じられた。具体的な利益額は忘れたが、そもそも生命保険のサービスを提供する組織が大きな利益を計上する事は倫理上許される事なのだろうか。保険とは本来互助的なもので、大きな損失や悲しみを互いに分散して分かち合おうというものだ。その中で一部の者が大きな利益を出すのはおかしな事で、そういう事のないように保険料が調整されるべきものだろう。それでなくとも生命保険会社は一等地に大きなビルを構え、社員は高給を食んでいる。どこかおかしくないか。

先月、五月の初めにはローマで教皇を選ぶ選挙があった。その選挙をコンクラーベと言うんだとか、選挙結果が煙の色で知らされるとか、興味本位な報道が沢山なされたが、そこで被選挙権を持つのが133人の枢機卿に限られ、しかもそれが全員男性である事の不思議に触れた報道はなかった。

今回のコンクラーベでは地域的な多様性が見られ、候補者はアジアやアフリカ、南米からの出身者もいる事は強調されたが、女性が含まれない事は話題にすらなかった。カトリックという組織を知らない私の無知の問題に過ぎないのかも知れないが、昨今女性の権利を重視する傾向からすると不思議な事だった。

14億人のトップを決める、という表現も不思議だった。仏教界ではトップの人は恐らくいない。イスラム教ならカリフという人がかつてはいたが今は多分いない。宗教の世界で人間に序列が出来ている違和感に言及した報道も全くなかった。

2025年6月17日火曜日

焚書坑儒

トランプ大統領とハーバード大学の争いを見て、秦の始皇帝がやった焚書坑儒を連想した。尤も私自身、個人的にだがトランプ氏はどうしても好きになれないが、始皇帝にはどちらかと言えば肯定的な印象を持っている。

数週間前にご紹介した「ルポ トランプ王国」がなかなかの好著だったのでその続編も読み、棚の近くにあった「トランプのアメリカに住む」を手に取ってみた。「ルポ」の方の著者は新聞記者、こちらは東京大学大学院情報学環教授という立派な肩書で、ハーバード大学へ客員教授として招かれた時の事を書いている。

ところがこれがとても読みにくい。他の著作からの引用が多く、それを頭でこねくり回したような文章が続く。例えば「性」の問題についてはこんな調子。

<ウェーバーが論じたように、ピューリタニズムは神のまなざしの下での「禁欲」の倫理を徹底化し、やがてそれを近代的な資本蓄積に結び付けた。しかしそこでは「性」が思考の外に排除されていたのではない。むしろ事態は逆で「性」は思考の中心に焦点化され、婚姻関係の内部に閉じ込められたのである。だからこそその「性」がむしろ性欲とその対象との合理的な関係から再把握されることも可能だったわけだ。>

頭脳明晰な人ならもっと核心をついた明解な表現が出来るだろうに。頭悪いじゃないの、という言葉が喉の奥まで出かかった。

ともかく、こんな文章に出会うと、トランプ氏のアカデミズムに対する敵愾心や、始皇帝が

焚書坑儒を断行した背景がいくらか理解できるような気持ちにもなるのである。

 

2025年6月10日火曜日

備蓄米

 備蓄米に関する国会でのやりとりを聞いていて思った。野党の人達の主要関心事は国民の生活を良くする事か、与党をけなす事か、どっちなのだろうと。「バナナの叩き売りじゃないんだから」とか「1年経ったら家畜の餌になる」とか、一体どういう発想でそんな発言が出るのだろう。日頃から国民の生活を良くするために何をすべきかを真剣に考えていたら、昨今のコメ騒動に対しても「自分等ならこうするのになあ」というビジョンがあって、そのビジョンと実態との乖離を問題にし、与党のやり方を追求するという方法があるだろうに。他人の揚げ足を取ったり、けなしたりするだけだと、結局自分等のビジョンの無さを曝け出すだけになる。

報道によると、随意契約による備蓄米は想像以上の速さで消費者の手元に届いているようだ。しかし自分の近辺では、スーパーでもコンビニでもまだお目に掛かっていない。そこで私はちょっと不安になった。備蓄米とは本来、コメが凶作で飢饉が起きそうな時のためにある筈だ。もし本当に天明の飢饉のような事が起きて、いくらお金を積んでもコメが買えないような状態になったら、備蓄米はどんな経路で最終消費者に渡って行くのだろう。

今、高いとは言え、5㎏で4000円も出せば手に入る状態でも、備蓄米が出ると長蛇の列が出来てしまう。もし明日には飢えてしまいそうになったら人々が殺到し、ガザのような状況になってしまうのではないか。そんな時、公正かつ公平にコメが行き渡るような仕組みを政府は考えているのだろうか。物があったとしても、それを捌くシステムがないと全体としては機能しないと思う。野党にはそこら辺を問い質して欲しかった。

長嶋茂雄さんが亡くなった。僕の少年時代のヒーローだった。ご冥福をお祈りします。

2025年6月3日火曜日

鳥瞰的視野

 前々回の当コラムでは危うくトランプ派の一味に成り果ててしまいそうになったが、あれから改めて鳥瞰的視野の元、冷静に考え直して、なんとか踏みとどまり非トランプ派の矜持を失わずに済んでいる。

まず反省したのは、報道された内容がどこまで真実なのか、という事である。報道に虚偽はないにしても、こちらの勝手な推測で事態を曲解している事はないか。例えば富士山での遭難者の殆どが規則を守らない外国人であるかのような印象を持ってしまったが、それは事実なのか。手元に確たるデータがないので断定は出来ないが、恐らく登山者の大多数は日本人であり、遭難者が登山者の部分集合である事を考えるとその割合もほぼ同じで、遭難者の大部分は日本人であるに違いない。勿論中には不埒な外国人もいるに違いないが、あくまでそれは極く一部であって、救助の有償化を推進したい自治体が世論を有利に誘導するために特殊事例を誇張しているのではないのか。

アメリカにおける不法移民にしても、その多くが消費税は勿論、所得税も払っており、福祉にタダ乗りしているのは一部に過ぎない。

一部の特例を以て全体を代表するものと誤解すると、「中国人は」「クルド人は」と言った排外的発想につながり大変危険だ。公権力が世論誘導のためにそれをやるとかつてのナチスのような悲劇を生む。確かに極く一部のユダヤ人の中にシェークスピアのベニスの商人に出てくるような悪徳金貸しがいたかも知れないが、それが全てのユダヤ人に当てはまるかのような論調でドイツ国民を間違った方向に導いた。

今眼前にある事例は全体集合の中のどの部分に位置し、それはどんな割合で分布しているのか、という鳥瞰的視野を持つ事は社会の健全性を守るためにとても重要な事ではないだろうか。