2015年4月28日火曜日

無投票

統一地方選で多くの無投票が発生しているという。立候補者数が定数に満たないためだそうだが、投票行為は民主主義の基本をなすものだからそれが出来ないというのは大変憂慮すべきことではないか。如何なる場合においても投票は必ず行われるべきだという発想の元であるべき制度を考えて見た。
投票には良いと思う人を選ぶという機能と、信任するかしないかを表明する機能とがある。総選挙の際に行われる最高裁判所の裁判官に対する国民審査は後者の機能を制度化したものだ。昨今、カラ出張によって政務活動費を詐取するような県会議員がいたり、国会の本会議をサボって遊び呆けるような国会議員がいたり、議員としての適格性が問題になるような事件が散見されると、この人だけは議員にしたくないという住民の声を選挙に反映したくなる。
現在の制度では「この人を議員にしたい」というプラスの投票しか出来ないが、「この人だけは議員になって欲しくない」というマイナスの投票も出来るようにしたらどうか。そしてマイナスの票の方が多いような候補者がいたら、仮に全体として定数に達していようがいまいがその候補者は議員にしてはいけないと思うがどうだろうか。そういう制度になれば立候補者数の多寡にかかわらず投票は必ず行われるようになる。そうした過程を経て選んでこそ真の選良と呼ぶに相応しいのではないか。
ただ、そうするとますます立候補者数が減って、定数に満たないケースが多発しそうだが、そもそも定数とは何か。どういう根拠で決められているのか。議員の数が少ないとどんな問題が発生すると言うのか。議員のなり手不足は議員報酬が少ないからだ、という議論もあるようだが、報酬に釣られて議員になるような人が多くなると、その方が余程問題ではないか。

2015年4月21日火曜日

異文化

ある民放のスポーツ系バラエティ番組で、我等が錦織選手が素人を相手にテニスのハンディ戦を行うという企画があった。素人とは言え、かつてテニスで国体に出場したような人達だ。その中の一人に石井というアナウンサーがいて、彼が高校生の頃当時小学生だった錦織選手に負かされる試合のビデオが流されたりした。試合後のインタビューで錦織選手は年上の彼を「石井君」と呼んだ。
近所のテニス仲間でこの事が話題になり、日頃錦織選手の信奉者である人達が「年上に向かって君づけはよくないよ」とか「上から目線を感じる」などと批判していたが、私はちょと違う印象を持った。これは流暢な英語と同じく錦織選手の長いアメリカ生活の賜物なのだと。
長幼の序を大切にするというのは多分に東洋的、儒教的な価値観で、どちらが年上かを強く意識した兄弟という言葉に対して英語ではブラザーと年の差が意識されない。彼の地では長幼の序よりも身内感が重視されている。お互いをファーストネームで呼び合うというのも、私は貴方を身内の人だと思っていますよ、という気持ちの表れではないか。それは多民族が入り混じった社会で良好な関係を築くための知恵なのだと思う。だからジョコビッチは相手が年上でも決して「フェデラーさん」とは呼ばず「ロジャー」と呼び捨てにしている。
これは自然のように見えていざ自分がその場面に立つととても違和感を感じる。近所のテニス仲間が感じた違和感がまさにそれだ。アメリカ生活の長い錦織選手が石井さんをファーストネームで呼んだとしたら、どういう評価になっただろうか。

普段の価値観と違う場面で感じる居心地の悪さ、異文化に接する時の違和感は今後の国際社会において我々が克服しなければならないものの一つなのだと思う。

2015年4月14日火曜日

変な丁寧語

被災地の墓地の修復に関するニュースで「・・な墓地になっていただけたら・・」というコメントがあった。と思ったら寺社仏閣に油を撒くという事件に関してある人が「犯人には早く捕まっていただきたいですね。」と言っているのが字幕で流れた。妙な言い方だなあと思ったが後者はひょっとしたら「早く捕まえていただきたい」と言いたかったのだろうか。
製品に不具合が見つかった場合良く会社側が流す広告「着払いで送っていただきますようお願いします。」も本来なら「送って下さるようお願いします。」でないといけないではないかという学者さんがいた。会社と消費者の関係で言えばこの場合会社がへりくだらないといけない立場だから会社から見れば送って「下さる」のが当然だろうというわけだ。謝礼として会社が消費者に何かを送る場合には「送らせていただく」となるのだろうが。
何々させていただく、という言葉は大阪選出の某衆議院議員のスキャンダルでも沢山聞いた。国会を欠席させていただきました、私的な会合に参加させていただきました、秘書の実家に一泊させていただきました、云々。流石に飲み屋をはしごさせていただきました、はなかったけど、させていただくのオンパレードは聞いていて恥ずかしくなった。
誰が話しているのか、主語は誰かによって表現が微妙に変わるのだから外国人にとって日本語の敬語をマスターするのは難しいことだろう。ある有料チャンネルのテニス番組でレポータを勤めている外国人の丁寧語はちょっと変だ。試合前の選手を取材して「某選手がこうおっしゃっていたわけですが」などと言う。「誰々がこう言っていた。」というのが普通だと思うのだが。何でもかんでも丁寧にすれば良いという訳でもないのに。

2015年4月7日火曜日

方言

田舎に帰って同窓会に参加して何十年ぶりかに同窓生に会い想い出話しに花が咲いて、だけどその友人の口から流れ出るのが出雲弁でない時、何とも言えず淋しい気持ちになる。方言で話してくれたらもっともっと打ち解けて一体感も増し会話が弾むだろうに。友人が出雲弁を話さないのは出雲弁が話せなくなってしまったからなのか、それとも出雲弁を恥ずかしいとでも思っているのだろうか。どちらにしても淋しい限りだ。
学校を出て長い間田舎を離れたという人でなくとも方言はどんどん下火になっているようだ。友人の会社に勤める若い女性の話す言葉を聞いて思わず「貴女は都会から来たのですか」と聞いてしまった。地元の出身で今でもおばあさんから三世代同居していると聞いて、おばあさんが御健在なうちに出雲弁をしっかり習得して下さいね、とお願いしておいた。スーパーでレジを打っているかなり年配のおばさんまでもが標準語で受け答えしている。もっともこれは全国チェーンの指導が入っているだろうから仕方ないか。
方言を出来るだけ残したいと思っている時困るのが適切な表記の方法がない事だ。「い、のんか」の「い」は湯の事だが、やっぱり「い」と書いてしまっては台無しだ。「うちの」を表す「おちん」も表記に困る。「我が社」の事を「おちん会社」と言うくらいならまだ誤解は少ないだろうが、「我が家の子」を「おちん子」と書いてしまうと、出雲弁を全く知らない人は字面だけ見て男性の大事な部分を息子と言う世俗的慣用表現を出雲でもそのまま方言として使っていると誤解してしまう人がいないとも限らない。「い」と「う」の中間の曖昧母音を表す文字やイントネーションも伝えることの出来る表記方法があればいいのだが。