2015年4月21日火曜日

異文化

ある民放のスポーツ系バラエティ番組で、我等が錦織選手が素人を相手にテニスのハンディ戦を行うという企画があった。素人とは言え、かつてテニスで国体に出場したような人達だ。その中の一人に石井というアナウンサーがいて、彼が高校生の頃当時小学生だった錦織選手に負かされる試合のビデオが流されたりした。試合後のインタビューで錦織選手は年上の彼を「石井君」と呼んだ。
近所のテニス仲間でこの事が話題になり、日頃錦織選手の信奉者である人達が「年上に向かって君づけはよくないよ」とか「上から目線を感じる」などと批判していたが、私はちょと違う印象を持った。これは流暢な英語と同じく錦織選手の長いアメリカ生活の賜物なのだと。
長幼の序を大切にするというのは多分に東洋的、儒教的な価値観で、どちらが年上かを強く意識した兄弟という言葉に対して英語ではブラザーと年の差が意識されない。彼の地では長幼の序よりも身内感が重視されている。お互いをファーストネームで呼び合うというのも、私は貴方を身内の人だと思っていますよ、という気持ちの表れではないか。それは多民族が入り混じった社会で良好な関係を築くための知恵なのだと思う。だからジョコビッチは相手が年上でも決して「フェデラーさん」とは呼ばず「ロジャー」と呼び捨てにしている。
これは自然のように見えていざ自分がその場面に立つととても違和感を感じる。近所のテニス仲間が感じた違和感がまさにそれだ。アメリカ生活の長い錦織選手が石井さんをファーストネームで呼んだとしたら、どういう評価になっただろうか。

普段の価値観と違う場面で感じる居心地の悪さ、異文化に接する時の違和感は今後の国際社会において我々が克服しなければならないものの一つなのだと思う。

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