2015年5月26日火曜日

名所

十七日で終わったが県立歴史博物館で「入り海の記憶」という企画展をやっていた。その中で特に私の興味を惹いたのは大正十五年大阪毎日新聞が作った「日本鳥瞰中国四国大図絵」という観光名所案内だった。そこには萩の松陰神社が出雲大社と同じ位の大きさで表記されていた。
大正十五年と言えば松陰神社はまだ間口一間半奥行二間の土蔵造りの小さな祠だった頃だ。(当コラム399回参照)その小さな祠が堂々たる出雲大社と肩を並べるような扱いになっているのに驚いた次第。そして名所というものについて考えさせられた。一つは誰が作ったのかということ、そして費用は誰が負担したのかということ。
松陰神社は後に弟子たちが師の遺徳を偲び、その短い生涯を惜しんで作ったもので、決して被顕彰者である吉田松陰が作ってくれと言い残したものではない(と思う)。一方の出雲大社は大国主命が国譲りをする替わりに大きな社を作ってくれと言ったと伝えられるが、本当だろうか。大国主命の善政を偲んで住民が自発的に作ったものが、後の為政者の都合で次第に大きくなっていったのではないだろうか。そもそも被顕彰者の方から自分の記念碑を作ってくれと言い出すなんて北朝鮮の不必要なほど大きな銅像を思い出させて面白くない。
松陰神社が当初小さな祠だったのは、それを建てたい人達の純粋な気持ちが自分らの労力の範囲内で可能な事をした結果だった。それが大きくなるにつれて資金集めが必要になり、その極端な例が民衆の飢えと引き換えにした北朝鮮の銅像だろう。そもそも名所旧跡とは民衆の犠牲の上に成り立っている。それを思ったのは秋田市内を観光した時なのだが、その話はまた別の機会に。

2015年5月19日火曜日

十手先

電王戦で垣間見えたコンピュータの意外な弱点とは、なんと十手先もコンピュータは読めないという事だった。詰め将棋のように一本道であれば何百手も先まで読めるコンピュータが序中盤の手の広い局面だと十手先に仕掛けられた罠に気付かなかったのだ。
コンピュータにゲームをやらせるという事は、そのゲームの局面を数学的に表現する方法を考え、ルールに従って到達しうる出来るだけ多くの局面を想定して、それぞれの局面を評価して一番良い結果が得られるように次の一手を決める事だ。全ての局面を網羅できればいいが、十手先で考えられる全ての局面は将棋の場合107374182400億手になるという。仮に一分で一億手を読んで評価する事ができても、これを全て読むためには20万年かかる。だから数手先にこれなら絶対に有利だとか不利だとか判断する局面があったらそこで読むのをストップして別の手を検討する事になる。
まさに今回コンピュータが陥った罠はそこにあって、二手先に馬を作る事ができるなら絶対有利なはずだと、そこで判断をストップしてしまったのだ。実は十手先でその馬をタダ取りされる順があるというのに。
開発者はソフトにそういう欠陥がある事を知っていて、プロ棋士を相手に馬をタダ取りされては勝つ見込みがないとして早々に投了してしまった。だが、どの段階でコンピュータが自分の過ちに気付くのか、そして気付いたときどういう反応を示すのかを見たかった。最近はコンピュータが自ら学習する機構についても研究が進んでいる。
電王戦は勝ち負けもさることながら、人工知能の限界を知り発展させる事がより上位の目標としてあるはずだ。負けを認めるのも知能の一つ、コンピュータが負けを認めるまで続けて欲しかった。

2015年5月12日火曜日

執念と美学

松江で将棋の名人戦が行われた。それで思い出したが電王戦FINALにはいろいろと考えさせられた。プロ棋士の勝利への執念と、あれほど強力に見えたコンピュータの意外な弱点とである。
プロ棋士がコンピュータの挑戦を受ける電王戦は過去三回戦われ、いずれも負け越したプロ側は今回こそは絶対に負けられないとの気負いがあったのか、将棋の本筋とは違うところでのコンピュータの弱点を研究し、それを利用しての勝利だった。
将棋の奥義をきわめるというよりも、勝ち負けにこだわって小細工を弄したようなその姿勢には若干の違和感があった。対局者自身も「葛藤はあった」と認めている。いわゆる嵌め手に属するもので、一見おいしそうな手をおとりに罠を仕掛けたのだった。詳しい手順はここでは書けないが、正々堂々と戦ったのでは勝てないとプロ棋士が認めたような内容だったと思う。
勝負事だから勝ちを目指すのは当然の事だろうが、過度に勝敗にこだわるとちょっと醜さを感じてしまうのは何故だろう。不利な局面でも最後まで諦めずに全力を出し切る美しさと、醜いこだわりを分けるのは、終わった後お互いを称え合う気持ちが残るかどうかだ。
いつだったか囲碁の世界大会で韓国選手が大石を取られどうやっても勝てない局面で、相手の切れ負け(持ち時間がなくなると負けるというルール)を狙って、勝敗に直結しないヨセを打ち続けたことがあった。そこまでやると試合後に握手をする気持ちがなくなるのではないか。
谷川浩司十七世名人の将棋には美学があり、局面が不利になって回復の見込みがなくなると潔く首を差し出し、相手の綺麗な勝ち方を演出するような指し方をする事がある。こちらはもっと粘って欲しいのに。
コンピュータの弱点については次回に。

2015年5月5日火曜日

仕事と報酬

「町村議選で定数割れ続出、報酬割り合わぬ」との見出しが新聞に載った。だから報酬を上げようというのだが、しかしそもそも報酬を目当てに議員になろうとする人を信用して良いものか。綺麗事だと言われるかも知れないが矢張り高い志を持って使命感に後押しされてなるものであって欲しい。
職業に貴賎はないというのは当然の事であるが、仕事には報酬を目当てにするものとそうでないものとがあるように思える。例えば芸術家などは報酬を目当てにしている人はおそらく誰もいないだろう。絵を描きたい、美しい音楽を奏でたい、そういう内なる欲求に動かされて画家になったり音楽家になったりするはずだ。プロのスポーツ選手は若干微妙なところがあるが、お金目当ての人は概して大成しないのではないか。
一ヶ月くらい前だったか世界卓球選手権で優勝し、優勝賞金の額を聞いた伊藤美誠選手のあどけない表情が印象的だった。中学生にしては大金であるその賞金が彼女の目標であったはずもなく、ただ強くなりたい、良い試合をしたいという一念だったからこそ頂上に立つことが出来たのではないか。報酬は結果であって目標ではないのが一流選手の常道だろう。
お金がインセンティブの第一順位でない姿は理想的だとして、世の中には報酬がなければやりたくないような仕事があるのも事実だ。ある意味苦痛の代償として報酬を得るような仕事だが、政治家がそういう種類のものであって欲しくはない。昨今日本のマラソン界が不振で、選手達を鼓舞するため日本新記録を出した人には一億円の賞金を出すことに決めたそうだ。瀬古や中山の時代には考えられなかった事。お金に頼らざるを得なくなるのはその世界の衰退の表われだ。やむを得ないのかも知れないが何か淋しい。