2015年8月25日火曜日

夏のオリンピック

八月も下旬を迎えいくらか過ごしやすい日もあるが、まだ残暑は厳しい。廿五日は処暑、暦通り暑さがおさまればいいのだが。それにしても七月末から盆にかけては暑かった。この恐らく日本で一番暑い時期に五年後の東京オリンピックは行われるという。IOCは夏季五輪開催日を715日~831日までの間に設定することを大前提としており、東京の場合724日から89日までの予定とか。どうせならお盆をまたげば見る側には好都合だったろうに。
猛暑でのマラソンの実施にいろいろ懸念が出たり、工夫が提案されたりしているが、いっそのことマラソンは冬のオリンピックの競技種目にしたらどうだろう。福岡国際マラソンなど主要なマラソン大会は大概冬に行われる。そう言えばサッカーやラグビーなども天皇杯などメイン・イベントは冬に行われるから冬のオリンピックでもいいのではないか。なにも氷と雪に関連したものだけが冬のオリンピックでもあるまい。
過去のオリンピックの開催期間を調べていて意外な事を発見した。近代オリンピックが始まって最初の頃は数ヶ月に渡って行われていたという事だ。第一回のアテネはともかく、第二回パリ大会は520日から1028日まで、第三回セントルイス大会は71日から1123日まで、第四回ロンドン大会は427日から1031日まで、と言った具合だ。理由はよく分からないが、第二回のパリ大会は併行して行われた万博の余興の位置づけだったとか。オリンピックが現在のような権威を獲得するまでには紆余曲折があったに違いない。
「参加する事に意義がある」という標語は参加者が少なかったからではないか、アマチュアリズムはプロからは見向きもされなかったからではないか、などと邪推をしてしまうのである。

2015年8月18日火曜日

阿波踊り

阿波踊りは日本一の祭りと言っていいと思う。祇園祭にしろ東北の三大祭にしろ見るだけのものだ。岸和田のだんじり祭は何代も地元に住む人でないとだんじりを引かせて貰えないと、岸和田に新居を構えた友人から聞いた。その点阿波踊りは誰でも参加できそれなりに楽しめる。青い目の外人さんが見よう見真似でぎこちなく手足を動かしていたりする。平田の天神祭もちょっとでいいから一式飾りを製作する喜びに接する仕掛けを考えたらどうだろうか。
この夏徳島市内在住の先輩からお招きを頂き、阿波踊りを実体験する幸運に恵まれた。かつて所属した会社の企業連の一員となって、紺屋町演舞場を踊り歩いた。
営業所で浴衣に着替え白足袋を履いて腰から印籠をぶら下げ鉢巻を締めて出番を待つ。駐車場で営業所長から踊りの特訓を受けて阿波踊りが人間の阿呆を追及した文化芸能だと思った。
阿波踊りの基本動作はどうしたら人間を阿呆に見せることが出来るかという点から成り立っている。凛々しい丈夫ならば仁王立ちが似合うが阿波踊りではがに股でへっぴり腰に構えないといけない。脇を締めるのは相撲に限らず多くのスポーツの基本だし、何か大事をなそうとする時の比喩に使われたりするが、阿波踊りでは隙だらけに脇を開け両手を肩以上にして構える。しかもその姿勢から前に進むときは手足を右、左と同時に前に出す。これは時に映画などで精神に障害のある人を表現する為に用いられる動作だ。
こうして徹底的に阿呆を強いられた基本動作からしかし、卑屈さは微塵もなく、有名連の人達の踊る姿は伸びやかで楽しそうで崇高さすら感じさせる。阿波踊りのこの奥深さは一体何だろう。
阿呆である事はかくも素晴らしい事なのだと示して見せた大衆の知恵と生命力の偉大さにただ脱帽するだけだった。

2015年8月11日火曜日

スカルノ

先月下旬国士舘大学で「スカルノ国際共同研究発会式」という催しがあり縁あって参加した。インドネシアの初代大統領スカルノの業績研究を通してアジア近代史への理解を深めようというもので、当日はスカルノ大統領の御長男、その娘で現在インドネシアの国会議員であるプティ・グントゥール・スカルノさんなどが出席した。
第一部は大教室での講演会。国士舘大学の教授によるスカルノの業績紹介やプティさんによる記念講演などが行われた。スカルノの業績の第一は何と言ってもインドネシアの統一と独立なのだが、一九五五年のバンドン会議も忘れてはならない。周恩来やネルーなどアジアの指導者を集めた会議で、スカルノはそこに日本の代表も呼んだ。当時はまだ第二次大戦の記憶も生々しい時期。うっかり顔を出せば参加国から袋叩きにあうのではないかと、疑心暗鬼の日本政府は当時の経済企画庁長官高崎達之助を代表として送った。おっかなびっくりの高崎はしかし大歓迎を受ける。この時の周恩来との縁で高崎は日中国交回復に活躍することになる。
第二部はラウンジに場所を移して立食パーティ。プティさんは気さくな方で私とのツーショットにも気軽に応じてくれた。招待客が入れ替わりスピーチに立つ中で印象に残ったのはプティさんの同僚議員のスピーチで、もしスカルノがいなかったらカリマンタンはインドネシアになっていなかっただろうというもの。多民族が割拠する島嶼国家を一つにまとめるのは大変な事だったろう。
最後の締めくくりのスピーチでプティさんはジャスメランという言葉を紹介した。これは直接的には赤い背広という言葉だが、歴史を忘れないという意味が含まれるそうだ。プティさんは日本は歴史を忘れないで戦後復興を果たした、と言った。インドネシアの日本に対する敬愛を感じる言葉だった。

2015年8月4日火曜日

エンブレム

東京オリンピックのエンブレムが発表されて、その第一印象は「えぇ、何、これ。ひどい!」だった。もっともそう感じるのは私に美的センスがないからであって、審美眼のしっかりした人には優れたデザインに見えるのでしょうかね。
それにしても説明も何か変だった。いわく、東京のT、チームのT、明日を意味するトゥモローのTだそうだが、どうしてトゥモローだけわざわざ日本語で補足しないといけないのだろう。オリンピック、エンブレム、チーム、トゥモローとカナ文字を並べて、トゥモローだけが格別難しいというわけでもなかろうに。もし私の母が生きていたならどう言うか。オリンピックはかつての東京オリンピックを経験しているから問題ないだろうが、エンブレムは何の事か分からないと言うだろう。残りの二つはおそらく理解しただろう。
こうしてみると、トゥモローだけ日本語の補足があったのは、それが必要だったからではなく、エンブレムやチームはどう日本語にしてよいか分からなかったからではないかと勘繰りたくなる。
チームもいざ日本語にしようとすると結構難しいが、それは皆様のお楽しみにとっておくとして、エンブレムを英英辞典で引いてみると「会社やスポーツクラブなどの組織を代表する象徴として選ばれた意匠図案」という説明がある。いわば家紋のようなものだ。日本には家紋という優れたデザインの伝統があるのに、今回のエンブレムはなんと不格好か。招致活動の際に利用した桜の花びらが散りばめられたデザインの方がよほどましに見える。しかもそれは誰かの作品を盗作したのではないかとの疑いもあるという。盗んでまで利用したいデザインには見えないが。
はいはい、もちろんこれは私の審美眼の方にこそ問題があるのでしょうがね。