2016年10月25日火曜日

浦上玉堂

浦上玉堂という人がいる。江戸後期の文人で、備前池田藩の支藩の君主側近として藩政にあたっていたが、大目付役を罷免されたのをきっかけに二児を連れて脱藩。全国を遊歴しながら琴、絵画、詩作を楽しんだ。その絵は水墨画でありながらなかなか賑やかな絵で独特の雰囲気がある。数週間前NHKの日曜美術館での放送からの引用になるが以下のような事を言っていたそうだ。
人は名誉と利益を楽しむが 私は酒と琴とを楽しむ
 人は富と高い身分を好むが 私は酒に酔って詩を詠うのを好む
 粗末な食事でも空きっ腹よりいい おんぼろな家でも露天よりいい
 人生満足するということを知らなければ煩悩がなくなることはない
お金や名誉は要らないよ、と言いたいらしいが、ここに友情や愛情など人との交わりの喜びについての言及がないのはどうしてだろう。
私個人も特別豪華で綺麗な衣装に身を包みたいとは思わないし、特別贅沢な美食を楽しみたいとも思わない。衣類は寒さから身を守る事が出来れば十分で、食事は栄養失調にならなければそれでいい。それより何より同性であれ異性であれ敬服・憧憬・素敵の言葉が似合う人物に出会え、しかもその人が誠意を持って談笑に応じてくれたらそれ以上の喜びはない。
そうした出会いはお金では買えないし、誠意を基盤とした関係を構築するにはお金はありすぎるとかえって邪魔になりそうだ。お金は凍え死にしない、飢え死にしない程度にあればいい。出来れば酒に酔って詩を詠うくらいあればそれに越したことはないが。
浦上玉堂が二児を連れて脱藩した時既に奥さんは亡くなっていた。彼の異性を含めた交友関係は全国遊歴の中で満足できたのだろうか。それとも琴棋書画を通じて時空を超えた交流を楽しんでいたのだろうか。

2016年10月18日火曜日

文学

NHKのラジオ番組にカルチャー・ラジオというのがある。歴史、芸術、文学、科学の四つの分野で週に一回三十分の講和が三ヶ月毎にテーマを変えて放送される。文学は木曜日だが何回か前にボブ・ディランが取り上げられた。その時は最初の二回ほど聞いてあまり面白くなかったので以後聞くのを辞めてしまったが、今から思えばもう少し辛抱して聞いておけば良かった。
十月から鴨長明がテーマになっているが先月まではマーク・トゥエインだった。これは面白かった。今回のボブ・ディランのノーベル賞受賞は人種差別撤廃運動への影響も受賞理由の一つのようだが、この分野ではマーク・トゥエインの書いたものの方が心に響く。興味ある話題があるのでご紹介しておく。
マーク・トゥエインの代表作の一つに「ハックルベリー・フィンの冒険」がある。主人公のハックは凶暴な父から逃れるために身を潜めている時、逃亡奴隷のジムと出会う。社会に背を向けるという共通の環境にある二人は友情を育みながら北部の自由州を目指して筏で川を北上する。だが、自由州が近づくにつれてハックは自責の念に捕らわれる。それは何と、ジムを告発しなければならないという思いだ。当時南部には逃亡奴隷をかくまったり援助することは罪だという法律があった。それを知っているハックは今ここでジムを当局に突き出さなければ自分が永遠に罪人の刻印を押されてしまうと悩むのだ。ハックのそうした心を察知したジムの態度がまた涙を誘う。
この作品には普段はこよなく親切でやさしく信心深いおばさんが、こと黒人に対しては冷酷無比な態度をとってしかもそれが正義であると思っているような場面もあるようだ。ある社会環境では世間的良識が必ずしも人間の善を反映しない。常に心すべきことだろう。

2016年10月11日火曜日

引越しのススメ

葛飾北斎は生涯で93回の引っ越しをしたそうだ。絵に熱中するあまり部屋の片付けなどに気が回らず、部屋が汚くなると引っ越しをしたとか言われるが、一方で一日三回も引っ越しした事があるとも言われるから真の理由はよく分からない。
私も最近引っ越しをして、これはなかなか頭の体操になるなと思っている次第。それまである一定の秩序の中で生活していたものが、全く異なる環境の中で別のルールに従って生きることになる。要するに簡単な言葉で言えば、物がどこに仕舞ってあるのかが今までの感覚とは違う場所になるので、それが脳を刺激するのだ。
親が生前に買い溜めてた石鹸があるはずなのに見つからない。以前は洗面台の横の洗濯機の上の棚にあった。引っ越し先には洗濯機の上に棚がないから別の場所にそれなりの理由で仕舞ったはずが、その理由が思い出せない。異なるルールに柔軟に対応する能力を試されているようだ。また探していたものが見つかった時の喜びもおそらく大いに頭脳を若返らせてくれるだろう。
家の引っ越しも随分と頭の体操になるが、もう一つのお勧めがスマホの引っ越し。
普通ビジネス界では長い付き合いを大切にするのが常識だが、スマホの世界では新たに乗り換えると有利な条件になるようになっている。番号やメールアドレスが変わってしまうのを恐れる人が多いから、それに胡座をかいた商売のように見える。それに乗ってしまうのが悔しいから敢えてスマホも引っ越しする事にした。機器自体が新しくなって画面が大きくなってデータ通信量が倍になってなお月々の支払は少なくなる。ただこれも従来と異なるルールを強いられる。操作方法が微妙に違うのでそれに慣れるのが大変だ。
家もスマホも引っ越しでアタフタする今日この頃である。

2016年10月4日火曜日

同一労働同一賃金

「同一労働同一賃金」の文字を報道で見るたび若干の違和感を覚える。元々この言葉は男女差別の撤廃を目指して発せられたものだった。同じ労働をして同じ結果を出すのに女性だというだけの理由で賃金が低く抑えられているのはおかしい、というのは誠に全うな意見だ。だが昨今の使われ方を見ると正規・非正規の格差を問題にする場面が多い。これは如何なものか。経営工学的見地からの愚見を述べてみたい。
そもそも「非正規」とは何か。正規社員と外見上の業務形態が特別違う訳ではないのに不当に不利な条件で採用されている事だとすると、それは理論上あってはならない事で議論の俎上に上らない。ここでは業務量に応じて正規社員の能力を補完するために期間限定で採用される人を指すことにしよう。
経営工学の一つのテーマに能力設定がある。例えば生産設備の能力をどう設定するか。需要の大きさに応じて決めるわけだが、問題は変動する需要への対応である。設備能力が小さすぎれば注文に応じきれず、需要のピークに合わせれば多くの場合設備が遊んでしまう。通常はピークの八割程度の能力を用意し最盛期には外部の支援を仰ぐ事にする。そして外部委託する場合のコストは内作するより高いのが普通だ。
さて、人間の神聖なる労働力を生産機械設備と比較するなんてけしからん、とお叱りを受けるかも知れないが、非正規労働は上記の需要のピーク対応と考えるのが至当ではないか。だとすれば非正規労働の時間単価は正規労働の時間単価より高くて然るべきだというのが私の意見なのである。

そもそも働き方の選択肢を提示するに当たり、一方は安定しているが単価は安い、一方は単価は高いが不安定、というトレードオフがない限り検討の余地もないではないか。