2017年7月25日火曜日

十膳山

十膳山という山をご存知だろうか。松江市と旧平田市の境にあり、その山頂から宍道湖を望む眺めは絶品だ。今なら山頂まで車で行く事が出来る。この山の素晴らしさは山頂からの景色もさることながら、その山頂までの道が一人の民間人によって拓かれた事である。
多久和幸男さん、伊那地区のコミセンを通じてお話を伺いたいと申し入れると、山頂で会いましょうと返事を頂いた。山頂は平らに整地され、十数人が歓談できるようなビニールハウスが設置されている。元々この辺りの畑を耕しに獣道を登っていたが、山頂の木を切ればさぞ眺めが良いことだろうと思いついたとの事。平成二十年から使い慣れた油圧ショベルを使って道を整備し始めた。木を切っては道を作り、油圧ショベルで山頂に到着した時の感動は忘れられないと仰っていた。一応の道は出来たものの、当初は乗用車での行き来は出来ず、トラクターで山頂への行き来をしていたとの事。少しづつ道幅を広げ、砂利を敷き固め、軽トラックでの物資の輸送が出来るようにした。
それにしてもこのような事を思いつき、しかもそれを実行し完成するとは、なんと素晴らしい精神力と実行力だろう。小学校で習った十和田湖でのヒメマスの養殖を成功させた和井内貞行を思い出した。着手当初は白い眼で見ていた人も、ゴールが見え始めると次第に賛同者に変わっていったであろう事が想像される。
宍道湖北部広域農道を平田から松江に向かって走り、一畑薬師への道を過ぎてしばらくすると左側に「十膳山」と書かれた小さな標識が見える。それを左折し道なりに「十膳山→」と書かれた指示に従って登れば山頂にたどり着く。山頂のビニールハウスに置かれた緑色のファイルに是非感想を記入されたい。それを読むのが多久和さんのこの上ない喜びだそうだ。

2017年7月18日火曜日

鞘の中の名刀

好きな映画は何か、と聞かれるといつも黒澤明の「椿三十郎」と答える事にしている。小難しい理屈がある訳でもなく、深刻に何かを考えさせられる訳でもなく、エンターテインメント性十分で痛快な話が展開されるからだ。主演の三船敏郎が演じる椿三十郎はすこぶる腕の立つ剣豪で、その能力の発揮場所を探しているかのように、いつもギラギラしている。それを見た家老の奥方(入江たか子がおっとりした世間知らずの上品な奥さんを好演している)の台詞が忘れられない。「本当に良い刀はいつも鞘の中に収まっているものですよ。」
天才中学生、藤井四段を見てその台詞を思い出した。詰将棋解答選手権チャンピオン戦では並み居るトッププロを尻目に、小学生で優勝するという切れ味を持ちながら、インタビューの様子を見ると実に穏やかでおっとりしていて、どこにでもいる中学生のようだ。話す内容はとても中学生とは思えない大人びたものだが。将棋に関する著作の多い作家、大崎善生氏も朝日新聞に次のように書いている。「藤井君に会ってみて思ったのは本当にどこにでもいるような、頭のいい中学生という雰囲気だった。羽生善治や谷川浩司をはじめとした多くの天才少年を身近で見てきた私はまずそのことに拍子抜けした。(中略)そこには羽生、谷川ら多くの天才たち特有の閃きや切りつけるような感性の刃のようなものは感じない。賢い中学生。そのままの姿である。しかししばらく話しているうちに、逆にだから凄いのだと思いついた。それこそが凄みなのだ。」
藤井四段は文章もうまい。写真週刊誌に載っていた小学校の卒業文集も、将棋雑誌に掲載された羽生三冠との将棋の自戦記も、立派なものだった。字も達筆だ。この刀が抜かれた時には一体どんな輝きを放つのだろうか。

2017年7月11日火曜日

悪い事

悪事というと何か凄く悪い事のようなイメージがあるので、ここではやわらかく悪い事と言っておく。前々回のウソも悪い事の一つで、人は出来ればウソをつきたくないのと同じで出来れば悪い事はしたくない。そもそも悪い事とは何か、という問題もなかなか難しく面白くていろいろ議論ができそうだが、それもここでは置いておこう。
豊田真由子様という方は自分の暴虐ぶりについて、事件発覚後身を隠しておられるところをみると、それが悪い事だという自覚はお持ちのようだ。
自分が悪いと思っている事を敢えてやる時には結構勇気がいるものだ。それでも悪い事をやってしまうのはどういう時か。わが身を振り返ってつらつら考えてみるに、正当防衛や緊急避難のケースを別にすると、それがばれる可能性が低くて、万が一ばれた時にもそれに伴い負担するコストが安く、かつそれによる利得が大きい場合という事になるだろうか。要するに露見の可能性とコストと利得のバランスを考慮して、という事になりそうだ。
例えば人前でオナラをするという場合、大きな音がしない事を祈りつつ、もしばれても頭を掻いて笑って誤魔化そうという思い、このお腹の違和感を何とかしたいという切羽詰った思いが交錯して断行する事になる。
真由子様の暴虐ぶりは正当防衛も緊急避難も関係ないから、彼女の頭の中でも上記の要素が葛藤したと思うのだがどうだろう。露見の可能性がないと思っていたのだろうか。露見した時のコストを読み違える程馬鹿ではないはずだ。それともあのストレス発散がそのコストを上回る利得を彼女にもたらしたのだろうか。
それでもまだ悪い事との自覚があればいい。防衛大臣はどうやら悪い事(公的立場の私的利用)をしたという自覚がないようだ。これもまた困ったものだ。

2017年7月4日火曜日

二十九連勝

藤井四段の連勝が二十九でストップした。いずれは止まる連勝、もし二十六戦目に対戦した瀬川五段が勝っていれば、その瀬川五段に私は勝った事がある(勿論二枚落ちのハンディ戦であるが)事で自慢話の一つも出来たのだが。
それにしても藤井フィーバーは凄かった。東京都議会議員の選挙速報を途中で止めて将棋の勝ち負けをテレビが報じるなんて前代未聞の出来事ではないだろうか。局後のインタビューを受ける藤井四段の目はちょっと潤んでいるように見えた。
さて将棋で二十九連勝する事はどれほど大変な事か。プロとアマの差が大きいのは将棋と相撲の世界だと言われてきた。その相撲の世界では双葉山の六十九連勝という輝かしい記録がある。それと比較して藤井四段の二十九連勝はどうか。
勝敗を決めるのは実力の差と時の運がある。その両者の比重を比べた場合、将棋の方が相撲に比べて実力の差が寄与する割合が大きいように思えるがそうでもないようだ。将棋のトップの勝率は例えば羽生三冠の場合約七割、相撲の場合白鵬で約八割五分、双葉山の横綱時代の勝率が約八割八分だ。将棋の方が勝率が低いのはそれだけ偶然の要素が入り込む余地が大きいと言えそうだ。
さて、勝率八割八分の人が六十九連勝をする確率と、勝率七割の人が二十九連勝をする確率を比較すると後者の方が五倍難しい。つまり藤井四段の二十九連勝は双葉山の六十九連勝より五倍の価値がある、と言えそうだ。
それにしても藤井四段の活躍にあやかって老醜をさらけ出しているとしか思えないような人がシャシャリ出るのには我慢ならない。藤井四段の二十九連勝を報じる新聞の片隅に大内延介九段の訃報があった。大内九段ならもっと真摯なコメントが聞けただろう。合掌。