2017年10月31日火曜日

岡目八目

だいぶ前になるが小池百合子氏の講演を聞いた事がある。確か氏が環境大臣の頃だったと思う。場所は経団連のビルで演題は環境問題関連だったと記憶する。ところが実際の中身は演題とは全く関係のないカイロ大学での思い出話を延々と話すだけで、その内容には大きな失望を感じた。
その時から私の小池氏評は地に落ちた。碌な準備もせず、約束した演題と無縁な話を長々と話す不誠実さに呆れたからだ。東京の都知事選に立候補を表明した時もまさかあんな大勝を収めるとは夢にも思わなかった。民進党の多くの議員が彼女にひれ伏すかのように集まっていくのも、何かの間違いではないかと思った。
岡目八目で言わせて貰えば、都知事選と都議選の大勝は日本人の判官贔屓がもたらしたものではないだろうか。あの選挙では、大きな権力を持つ自民党とその都連がいて、それに素手で立ち向かう健気な挑戦者という構図があった。もし小池氏がすんなり自民党の公認を得ていたならば、果たしてあの結果が出たかどうか。所謂小池人気なるものが、本人のパーソナリティに根拠があったのか、それとも判官贔屓を引き出す構図が作り出したのか。自らを強者に位置づける排除発言で後者がなくなった衆院選の結果を見れば結論は明らかに思える。
だが、パリでのガラスの天井への言及などからすると、ご本人は未だ自分のパーソナリティに自信をお持ちのようだ。ガラスの天井、確かにあるかも知れないが世界にはドイツのメルケルさんのような例もある。メルケルさんはきっと有能でかつ誠実なのだろうと想像する。
それにしても日本の針路に大きく影響しそうな次の四年間がこんな敵失で決まっていいものか。消費税は間違いなく上がる、改憲への扉も開かれる。その手順が気になってしかたないのは私だけだろうか。

2017年10月24日火曜日

節用集

同級生からある古い本を譲り受けた。お父上の遺品を整理している中で出てきたものだとの事。小ぶりな糸綴じされた和本で、厚みはあるが携帯用のものと見えた。一部水に濡れた跡があり判読できない箇所もあるが奥付を見ると明治十七年の発行だ。最初の数頁は一般教養に関する事が書いてある。例えば県と旧国の関係などで島根に因幡も伯耆も含まれていた。
大部分を占めるのは「い一」から始まる字の羅列である。「い一」には伊、以、位、意など、続く「い二」には忌、色、出、入など、「い三」は未、祝、祈など、「い四」は戒、警、禁などがそれぞれ振り仮名付きで載っており、それが最後の「す」まで続く。頁を繰るうち袋綴じの版心に「節用集」との文字を発見した。ああ、これが節用集というものなのか。
日本国語大辞典によれば節用集とは「室町中期の用字集、国語辞典。実用的な教養書、雑学集」とある。辞典といえば言葉の意味、語釈を調べるものという思い込みがあるが、それは明治に西洋文明が入ってからの事らしい。それまでは漢字でどう書くかを知るためのものだった。並び方も今の常識とは随分と違う。第一音はイロハ順で、次に音数で並べる。これを「イロハ仮名数引き」と言うらしい。「イマシメ」を漢字でどう書くか知りたい時には「い四」から探す、という訳だ。もし純粋に全てイロハ順に並んでいたら「マツリゴト」なんて字を探すのは大変だったろうと思うが、昔の人は簡単にイロハ順が頭に浮かんだのだろうか。
そういえば最近の若い人の中にはアイウエオ順で辞書を引くことが出来ない人もいるらしい。知らない言葉があればパソコンに向かってその字を打てば良いのだから「に」と「む」がどっちが先にあるのか知る必要もないのだろう。時代は変わる。

2017年10月17日火曜日

旧暦

気候が急変した。先週の水曜日は半袖でも暑いくらいだったが、週末は長袖にカーディガンをはおりたいほどだった。今日、1017日は旧暦だと828日。旧暦愛好家に言わせると衣替えは旧暦の41日と101日にやるべしとの事だが、はたして今年は1118日まで衣替えを待てるのだろうか。
旧暦にはどこかノスタルジックな憧れがあって、それに従って生活してみたい、という思いが片隅にある。だが冷静に考えてみると地球の気候に与える影響の大きさは月より太陽の方がはるかに巨大であることは自明だ。旧暦愛好家が主張する旧暦のメリットを今一度見直してみたいと思った。
日付によって月の形が分かったり、潮の干満が分かったりするのはメリットであろう。明智光秀が本能寺の変を起したのが62日の未明であったのは、秘密の行動が露見しないように月明かりのない日を選んだからであり、赤穂浪士が吉良邸に討ち入った1214日は逆に月明かりが欲しかったのだろう。
だが旧暦の方が閏月が入ることにより体感季節をより正確に表現している、というのはどうだろう。因みに今年は閏五月があった。旧暦愛好家に従えば今年は夏が長いはずだったが、今年の夏休みはむしろ寒いくらいだった。
旧暦の本を読むと必ず出てくるのが二十四節気の重要性だ。だがこれは地球と太陽の位置関係で定義されたものであり、まさに太陽暦の申し子に他ならない。例えば立春は新暦では必ず24日前後に来るが、旧暦だと12月の中頃であったり、1月初旬であったりする。二十四節気はむしろ旧暦の弊害を是正するために導入されたものなのだ。
中国では旧暦を農暦と言って今でも新聞に日付が併記されている。農業における旧暦の重要性についてご存知の方がいらしたらご教授願いたい。

2017年10月10日火曜日

リベラル

民進党がバラバラになってしまった。そもそも党名を民主党から変更したあたり(当コラム450回参照)から雲行きはおかしかったし、今回の執行部は特に善管注意義務を怠ったのではと思われるのだが、それはさておき。旧社会党系の人達が「リベラル」と呼ばれるのを見てちょっと驚いた。「リベラル」とは本来自由という事なのだから社会主義を信奉する人達とは正反対に思えたから。
時々思い出したようにテレビに顔を出す小沢一郎氏が率いる「自由党」の英語名は「リベラルパーティ」だ。小沢氏と民進党の旧社会党系の人達が同じ「リベラル」の名で呼ばれるのは皮肉にしか思えない。
辞典ではどのように説明してあるのだろうか。広辞苑を見ると「個人の自由、個性を重んずるさま。自由主義的。自由主義者」とある。旧社会党系の人はそうだろうか?小学館国語大辞典には「政治的に穏健な革新をめざす立場をとるさま。社会の規律や習慣、権威などにとらわれないさま。自由であるさま。」とある。最初の方の定義なら旧社会党系の人に当てはまりそうだ。
英語由来の言葉だから英英辞典を調べてみるとコリンズコービルドには「自分と異なる態度や意見に寛容である人、組織。政治心情が穏健で、社会の急激な変化より徐々に改善する方を好む人。政治的自由とそれを許す仕組みを好む人。(拙訳)」とある。イギリスには保守党と労働党という右左の党があって、その中間に小政党の自由党があるから右か左かはっきりしないのもやむを得ないのかも知れない。
ネットを見ていたら「リベラル系議員(ガラパゴス左派)」という表現に出くわした。「ガラパゴス」はちょっと失礼だろうと思うが、こうした「リベラル」な人達を「リベラルパーティ」の小沢氏はどういう気持ちで見ているのだろうか。

2017年10月3日火曜日

テニス文化

来年の春の選抜高校野球から延長戦に「タイブレーク制」が導入される事になったそうだ。選手の疲労の緩和や試合時間の短縮を目的として、延長十三回からは無死一・二塁の状態から始める、などが検討されているとの事。「タイブレーク制」はテニスではかなり前から採用されていて、なかなか決着がつかない場合の優れた制度だと思う。(「タイブレーク」という名前はテニスが発祥だと思っていた。サービス・ブレークの数がタイ(同数)になった場合の制度だと思っていたが、ウィキペディアによるとそうではなく『本来、議会などで賛否同数の場合、議長がどちらかに一票を投じる議長決裁を「同数均衡 (tie) を破る (break)」と表現したことから派生した言葉である』との事。)
テニスでは本来獲得ゲーム数を争うべきところをポイント数の争いに置き換えて単純化し、競技そのものの醍醐味を失わないよう配慮されているが、野球の場合、最初からランナーをおくなんて野球の本質を損なってしまうのではないか。むしろ野手の数を減らすとか塁間距離を縮める等の方が良いのではないか。
先日バレーボールの試合を見ていたらテニスで採用されている「チャレンジ制度」が取り入れられていた。審判の微妙な判定に選手から確認を求める事が出来るものだが、驚いたのはブロックのワンタッチにも「チャレンジ」がなされていた事だ。ワンタッチがあったかどうかは実際にプレーしている人には明らかな事で、ビデオで確認するまでもない。バレーの選手は自分に不利な判定に対して自己申告しないのだろうか。テニスならたとえ自分に不利な事でも審判の判定が間違っていると思った時は自ら異をとなえ、失点を認めるシーンを何度も見た。テニス愛好家の一人として誇る文化である。