2017年11月28日火曜日

イスラエル

一週間ほどイスラエルへ行ってきた。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教三つの聖地と言われるエルサレムがどんな所か自分の眼で見たかった。行っていろんな事に驚いた。
まず、イスラエルに入るのに直接飛行機で入るのがとても難しいらしい。私が参加したパック旅行もドーハ経由で一旦ヨルダンのアンマンに降りて、そこから陸路イスラエルに入る。イスラエルの飛行場での入国審査がどのようなものか伝聞でしか知らないが、なんでも執拗な質問攻めがあるため相当の英語能力がないと通り抜けられないらしい。だから旅行会社は空路を避け、陸路を取る。ヨルダンからイスラエルに入る際には四か所の検問を通過しなければならないが、特別ややこしい事もなく無事通過できた。
国を跨ぐ際にはヨルダン川を渡る。この川も驚きの一つだった。この川を挟んで国際紛争が繰り広げられる、知名度から言ったら世界でベストテンに入るかと思われるその川は幅が二メートルもあるだろうかという小さな川だった。平田の私の生家の近くを流れる京塚川(おそらく多くの読者はご存知ないであろう)の方が大きいくらいだ。ナイル川、ドナウ川、セーヌ川、テームズ川などの堂々たる姿に比べてそのみすぼらしさは悲しくなるほどだった。

イスラエルに入って驚いたのはアラビア文字があちらこちらに見える事だ。ナザレにある聖ガブリエル教会はマリアに受胎告知を行ったとされる大天使ガブリエルにちなんだ教会だが、門を見上げると十字架を取り囲むようにアラビア文字が書かれている。聞くところによるとキリスト教を信じるアラブ人は沢山いるとか。ナザレの町自体人口の75%がアラブ人らしい。イスラエルとアラブが争っていると単純に思い込むのはちょっと待った方がいいようだ。

2017年11月21日火曜日

関東在住

約七七万年前の年代を千葉県市原市で発見された地層から「チバニアン」と命名することが国際的に承認されたとの芽出度い話題が千葉県の今までの鬱憤を晴らしたと某新聞は書いていた。鬱憤とは言い過ぎかも知れないが、浦安は千葉県にあるのに「東京ディズニーランド」と呼ばれ、成田空港も千葉県にあるのに「新東京国際空港」と呼ばれていたのは千葉県民にとってけしからん話ではあった。
その記事を読んで、ふた月程前に「埼玉に住んでいながら東京在住とはけしからん」とのお叱りを頂いた事を思い出した。勿論それは正論で、反論する積りはないが当時の想いを改めて思い起こした。
私自身「東京在住」に左程違和感がなかったのは、出雲に帰った時友人から「いつ東京から戻ったか」とよく聞かれたりしたからだ。勿論その友人は僕の住所が埼玉であることは知っている。また出雲の飲み屋でたまたま東京から来た人に会ったりした時、友人が「実はこいつも東京から帰ったとこですよ」と私を紹介したりして、その客が「私は東京は練馬ですが貴方はどちら?」と聞いてきたのに対して「僕は東京は埼玉です」と言って笑いを取ったりする事もあったりした。
「東京から帰る」というのは移動手段を考慮するとごく自然な感じがする。羽田から飛行機に乗って帰る、新幹線の東京駅から帰る、夜行バスならバスタ新宿から帰る。こうした背景が東京から帰ったという表現を生むのではないか。そしてそれが埼玉にいながら東京在住にあまり違和感がなかった背景にあると思う。

さて、関西に眼を向けると、大阪にあるのに「関空」と言っている。それならばディズニーランドは「関東ディズニーランド」、成田空港は「関東国際空港」と呼べば丸く収まりそうだ。私の「関東在住」もまあ妥当かな。

2017年11月14日火曜日

国語辞典

皆さんは国語辞典を何冊お持ちだろうか。私は製本されたものとして広辞苑、新明解国語辞典、三省堂国語辞典、実用版現代国語辞典の四冊(他に岩波国語辞典があるはずだが)、それにカシオの電子辞書に入っている明鏡国語辞典を持っている。国語辞典なんて一冊あれば十分だろうと思われる向きもあろうが、なかなかどうしてそれぞれに面白い。
国語辞典の面白さを書いた本として「三省堂国語辞典のひみつ」がある。その著者が言うには国語辞典はラーメンのようなものだ、と。ひと言にラーメンと言っても塩味から豚骨味まで、具にも様々な工夫を凝らしたものがあって、個性豊かで多様なものがあるように、国語辞典にも同様だと言うのだ。
そもそも国語辞典とは何か。かつて節用集の頃は漢字の書き方が分かればよかった。現代の辞書は何を教えてくれるのだろうか。日本で最初の国語辞典は「言海」で作者の大槻文彦は発音・品詞・語源・語釈・出典の五つの要素を記載すべきだと考えた。これでもまだ足りないと考えた山田美妙はアクセントを加えた「日本大辞書」を刊行した。確かに英語ではアクセントがとても大事だ。それ以外でも色んな事を伝えよう、記録しようという辞書編纂者の苦労は前述の本を参照されたい。
語釈だけでも辞書の個性があって面白い。「言海」は「川」を「陸上ノ長ク凹ミタル処ニ水大ニ流ルルモノ」と説明している。傑作は新明解国語辞典の「恋愛」だろう。「特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒にいたい、出来るなら合体したいという気持ちを持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる(まれにかなえられて歓喜する)状態」だそうだ。ね、面白いでしょう。皆さんもいろいろ国語辞典を開いて見たらどうでしょうか。

2017年11月7日火曜日

自殺

二十年程前の事だった。会社で同僚の御子息の訃報が流れた。高校生で、詳しい事は分からないがどうも普通の死に方ではないらしいとの噂だった。同じ日の夜、高一の娘が言うには「今日、学校で三年生が自殺したのが見つかったよ」と。部活の部屋で首を吊っていたらしい。この二つの話が同じ事件だと分かった時には身の毛がよだつほど驚いた。
それまでは遠い世界の事のように思っていた身内の自殺が、急に間近にクローズアップされて迫ってきた。もし自分の子が自殺したら、そのショックに私は耐えられるだろうか。すぐにでも三途の川を渡ってあの世へ行って、閻魔大王の前に並ぶ我が子を探し出して、その胸倉をつかんで「この馬鹿野郎!どうして俺に相談してくれなかったのだ!」と往復ビンタをくらわさないと気が済まないだろう。そして骨が折れるほど抱きしめてやる。
自ら命を絶っただけでも耐えられないのに、神奈川の座間で命を奪われた八人の女性の御親族の思いは如何ばかりか、察するにあまりある。どこの馬の骨か分からないような男と話をするくらいなら、どうして自分に悩みを打ち開けてくれなかったのか。そもそも見ず知らずの男に誘われるままにノコノコとアパートにまでついて行くというのはどういう心境なのだろう。死ぬ決心とは常識では測れないものなのか。
四日も五日も経っても身元が分からないというのも不思議なものだ。死体はバラバラにされて肉を剥がれていたというが、顔の肉まで剥いだ訳ではなかろう。発見時に即、性別が発表されたのも頭部の腐敗はそれほど進んでいなかったからではないか。被害者はいずれも若い。失踪者のご家族は必死で行方を案じ、情報を求めておられるはずだ。情報化社会は犯罪には加担しても、捜査には寄与しないのだろうか。