2017年12月26日火曜日

土地所有

土地の所有権を巡っては隣地とのわずかな境界で争ったり、皆が神経を尖らせている。だが土地の所有に無頓着な人がいるとしたらどう思われるだろうか。
西洋人がアメリカ大陸に渡ってそこに住み着こうとした際、一番困惑したのが原住民に土地を所有するという概念がない事だった、という話を聞いた事がある。イスラエルを旅行して改めてその話を思い出した。農耕民族にとって土地は富を生み出す源泉であり、日本では古代から三世一身法とか墾田永代私有法とか土地の所有権を規定する決め事が出来た。それは土地が肥沃であった事とも関係しているだろう。
一方で中東はグーグル・アースなどで見ても分かる通り、ごく一部に緑があるものの大部分が砂漠の荒地である。そこで彼らはたまに振る雨がもたらした緑を求めて家畜を飼いながら遊牧民として生活した。そうした人達にとっては、どこからどこまでが俺の土地だ、などという考えは思いつかないのではないか。緑があればそこへ行って羊や駱駝に餌を与える。その場所は数年前には別の人が同じ事をした場所かも知れない。そこは俺のものでもなければ彼のものでもない。
彼らの土地に対する感覚を納得するには大気の存在を思い起せばよい。空気はそれを吸っていないと生きていけない大事なものなのに、どこからどこまでの空気が自分のものだなどと思っている人がいるだろうか。空気は皆の共有財産であって、皆が均等にその恩恵に浴していればいい、そう思っているはずだ。アメリカの原住民や中東の遊牧民にとっての土地も同じだったのではないか。近代的な土地所有観は彼等にとっては悪魔のような存在だったかも知れない。
今年一年御愛読ありがとうございました。年明けは九日からお目にかかります。

皆様良いお年を。

2017年12月19日火曜日

誤訳

前回のユダヤ人墓地の話はエルサレムから次の目的地へ向かうバスの中で聞いた。エルサレムについての質問に対する返答だった。同行していた日本人ガイドが最初は「1780年以降作られた墓地だ」というのでその時にどんなエポックメイキングな事件があったのだろうかと再質問したのに対して「70年の間違いでした」と言う。どうすれば701780を間違えられるのか呆れてしまった。
今回のパック旅行は添乗員と現地ガイドの他に通訳係りとして現地に住む日本人ガイドがついた。この日本人ガイドの英語力がひどかった。しょっちゅう誤訳するし、数字は特に苦手のようだった。現地ガイドが153と言ったのを135と訳したり、岩のドームが建設されたのが618年だと訳したのは驚いた。いくらなんでもヒジュラより前のはずがない。現地ガイドに直接確認すると691年と言ったとの事。
この日本人ガイド、大学を卒業してしばらく世界各地を旅行している内にユダヤ人の優秀さに感銘し、親の反対を押し切ってイスラエルのキブツのボランティアに身を投じた。そこで知り合ったユダヤ人男性と結婚し今はもう兵役も終えた子がいるとか。女性の身ながらその勇敢な生き方には敬服する面もあるが通訳ガイドとしては疑問符を持たざるを得なかった。おそらく家庭ではヘブライ語で会話しているのだろう。現地ガイドとの間でも英語よりヘブライ語で話している事が多かった。
さて701780の間違い。後で考えると彼女の犯した最も合理的な間違いである事に気づいた。私の推理では恐らく現地ガイドは西暦70年を70AD、つまりセブンティ・エイディと言ったのだろう。それを彼女はセブンティーン・エイティと聞き間違えたのだ。彼女に歴史の知識があったら防げただろうに。

2017年12月12日火曜日

エルサレム

トランプ発言によって急にニュースの主役に躍り出たエルサレム。テレビに映し出される風景が数週間前に見たばかりのものであるのは感慨深い。
城壁の向こうに金色のドームがあってその回りを石造りの建物が囲んでいる様子は、オリーブ山からエルサレムの旧市街を望んだ風景だ。良く見ると城壁の手前には四角い石棺が沢山並んでいるのが分かる。小さな谷を挟んでオリーブ山に到る斜面にも石棺は並んでいて、これはずっと昔からのユダヤ人墓地なのだそうだ。起源を聞くと西暦七十年にエルサレムがローマ軍によって占領され、旧市街内部にユダヤ人の墓地を建設することが許されなくなってからの事だとか。以来、この地を支配する者が変わっても、墓地は荒らされる事無く存続し続けたと現地ガイドは説明した。二千年近く墓地であり続けるなんて、疑い深い私はにわかには信じられず、機会があればより詳しく調べたいと思った。
ニュースに出てくる地図にもいろいろ面白い事がある。エルサレムの旧市街は四つの地区に分かれている。といっても特別な壁などがあるわけではなく、イエスが十字架を背負って歩いたと伝えられるヴォア・ドロローサは殆どがイスラム地区にあるのだが。四つの地区についてイスラム地区、ユダヤ人地区、キリスト教地区まではテレビで報じられるが、残る一つについては特に言及される事がない。それはアルメニア地区だ。イスラエルに関する本を読むとアルメニアという言葉が良く出てくる。これについても研究課題。
イスラエル全体を表す地図も報道協定のようなものがあるのか、ゴラン高原の扱いは一律にイスラエルともパレスチナ自治区とも違う色で塗られている。日本の報道機関はイスラエルの主張を認めていないようだ。アメリカの報道はどうなのだろうか。

2017年12月5日火曜日

旅行の醍醐味

アラブ人はアラビア語を話してイスラム教を信じている、イスラエル人はヘブライ語を話してユダヤ教を信じている、そういう思い込みがあった。だが世の中そんなに単純なものではない事を今度のイスラエル旅行で知った。
そもそも今度の旅行の現地ガイドは国籍はイスラエルだが人種的にはアラブ人でヘブライ語を話すキリスト教徒だった。それを聞いた時は頭がこんがらがってしまった。前回キリスト教を信じるアラブ人が沢山いる事、ナザレの町の人口の多くがアラブ人である事を書いた。そうした事実を私なりに解釈すると以下のようになる。実際に確かめた訳ではないのであくまで私の推測という事にしておく。
第二次大戦が終わった時、彼の地には様々な人種の人が混在して住んでいた。アラブ人もいればユダヤ人もいた。そこにイスラエルという国が建国されたが、多くの人はそのまま同じ場所に住み続けた。そもそも彼等にとって「国」というものがどれだけ明確に意識されていたのか疑問がある。第一次大戦まではオスマントルコの支配下にあった。トルコが第一次大戦の敗戦で解体され、新しくイギリスを初めとする西欧諸国の支配下に入った。アラブの種族間の争いもあっただろう。そんな中で自分の「国」がどこか、という事に関する意識は極めて希薄だったのではないだろうか。だからイスラエルという国が出来たからといって、いままで通り住んでいればいいのだ、というのが多くのアラブ人の感覚だったのではないか。イスラエル建国によってアラブ人が一斉に難民となってヨルダン方面に流れ込んだような印象を持っていたがそれは教科書やマスコミによるミスリードであった可能性が高い。

これも旅行で現地を見なければ分からなかった事だ。旅行の醍醐味ここにあり。