2018年1月30日火曜日

自殺

西部邁氏の自殺のニュースには驚いた。数年前までなら遠い人の死としてそれほど驚くこともなかったかも知れない。実は二三年前から同級の青山(旧姓岸)恵子さんと西部氏との対談番組が東京の地方局で流れていて、それをYouTubeで視聴させて頂いていた。新聞で自殺のニュースを知り青山さんに早速メールした。「ショックもあるでしょうが、気落ちしないで下さい」と。青山さんはすぐに返事をくれた。
それによると覚悟の死であったらしい。死の一週間前にも夕食をご一緒され「僕はもうすぐ死にますから」と仰ったとか。奥様に先立たれた心の辛さや身体の痛みとの戦いの中で家族に迷惑を掛けたくないとの思いが強かったようだ。
家族に迷惑を掛けたくないという思いは徹底していて、 川に流されて、遺体が見つからないと大変だからとしっかりと川辺の木に身体を結びつけ、また、顔が傷だらけになると娘さんが嘆くだろうからと、ネックウォーマーを二枚重ねて、顔をかくして川に入られたとか。お別れの会に出席された青山さんによると顔に傷一つなく、穏やかな笑顔のような死に顔だったそうだ。
自殺という死に方は残された家族にとっては耐え難く辛いものかと思うが、西部氏の場合は事前にご家族とも十分話をされ、自分の覚悟や死の意味などについて十分な納得と合意が得られていたのであろう。誠に見事な最期と敬服するしかない。
我が身を振り返ってどんな死に方ができるか、したいか、こんな立派な死に方はできそうもないが、次回のコラムではそれを考えてみたい。
因みに来る六月二日に出雲で青山さんのコンサートが行われるらしい。西部氏も応援されいて周りの人に「みんなでバスツァーでも組んで行きなさい」と仰っていたとか。西部氏の遺志なら私も行かずばなるまい。

2018年1月23日火曜日

パワハラ

一月十八日発行の週刊新潮(二五日号)を見て驚いた。藤原正彦氏のコラムがセクハラ問題を取り上げ、前回この欄で書いたのと似たような内容になっている。カトリーヌ・ドゥヌーブの発言を紹介し、おまけに源氏物語にまで言及しているではないか。セクハラの話題から源氏物語を想起するなんて、経緯や思惑は違うにしろ偶然とは思えぬなにか親近感を感じた。パワハラとか他の言葉の辞典出現も調べて一週間遅らせて発表しようかとも思っていたが、先に書いて良かった。
式守伊之助が若手行司に対して行ったのは、職場環境での出来事なのでセクハラと言うよりむしろパワハラと言うべきではないか、と最初思った。敢えてセクハラと言うのはキスという行為があったからなのか、などと詮索する内にセクハラとパワハラの本質的な違いに気づいた。それは相手に対する感情の違いだ。
パワハラの場合上司の感情は相手に対する蔑視や苛立ちや嫌悪と言ったどちらかと言えば否定的なものだ。一方セクハラの場合だが式守伊之助も相手を憎たらしく思っていたらキスをするなんて事はなかったろう。性的か人格的かはともかくなんらかの肯定的な価値を認めていたのではないか。だから同じハラスメントという言葉を使っているが、セクハラとパワハラでは中身が全然違うようだ。
両者に共通しているのは立場を不当に利用しているという点か。「いじめ」はパワーのある側が立場を利用して行うが、それをセクハラに認めてしまうと却って男女平等に反してしまう。それがカトリーヌ・ドゥヌーブの懸念事項のようだ。詳細は週刊新潮の本文記事をどうぞ。
因みにパワハラという言葉、広辞苑では第六版までなく第七版でようやく採用されている。概念としては忠臣蔵の頃からあったはずなのに。

2018年1月16日火曜日

セクハラ

徒歩圏内にある本屋が次々に閉店して、最も近い本屋でも5kmも離れているので困ってしまう。最近発行された広辞苑の第七版に「セクハラ」という言葉が採用されているか知りたかったのだが、今回はその必要がなくなった。手元にある電子手帳に搭載されている第六版に既にその言葉が載っている。もっと新しい言葉かと思っていたが二〇〇八年の発行の際には一般化していたということか。ちなみに昭和四四年発行の第二版には勿論、昭和五八年に発行された新明解国語辞典第三版にもまだ「セクハラ」の項目はない。
「セクハラ」に相当する日本語はないのだろうか考えてみた。「ハラスメント」だけなら「いじめ」「嫌がらせ」という言葉がぴったりだと思うが、特に性的なものに限定した言葉はないようだ。「レイプ」なら「強姦」という言葉がある。言葉がないという事はそういう概念がなかったという事に他ならない。もっとも原語の「セクハラ」も「セクシャル ハラスメント」と二語で成り立っていて、一つの言葉とは言い難いので、いずれにしろ女性の社会進出や人権尊重の流れに乗って生まれた言葉と言っていいのだろう。
あちこちでセクハラ被害を訴える女性(最近は男性も!)が現れている中でフランスの女優カトリーヌ・ドゥヌーブが異議を唱えた。新聞から引用すると「性暴力は犯罪だが、誰かを口説こうとするのは、しつこかったり、不器用だったりしても犯罪ではない。」男性がこんな事を言うと方々からバッシングを受けそうだ。
行動の外見だけからすると源氏物語で光源氏がやっている事の中にはまかり間違えばセクハラで訴えられても仕方ない事もありそうだ。地位も富も持ってるイケメンなら女性も許すのかな。

2018年1月9日火曜日

相撲之伝

年末年始のワイドショーは相撲の話題で持ち切りだった。日馬富士の暴行問題に端を発し、横綱の品格の問題を経て、最後は貴乃花問題になっていった。貴乃花問題はわざわざ問題にならなくても良かったようにも思うが、何かが奥底に隠れていてこれからも第二幕第三幕があるのだろうか。貴乃花親方の頑なな態度を見るとマスコミに対しても大いなる不信感を持っていて、その不信感は、かつて宮沢りえとの騒動を巡って生まれたものではないかと邪推する。
さて、年末の事だが両国の国技館に併設されている相撲博物館では「俳句・川柳にみる江戸の相撲」と題する展示があった。時が時だけに沢山の人が来ていると思ったが、国技館の外には大勢の報道関係者がいたものの案に反して館内は閑散としていた。展示の中では安来市出身の釈迦ケ嶽雲右衛門や、松江市出身の第十二代横綱陣幕久五郎の絵が目を引いたが、一番印象に残ったのは第七代横綱稲妻雷五郎が残した「相撲之伝」という相撲の心得を書いたものである。以下に引用する。()内は博物館による注釈。
「それ相撲は正直を宗とし、智仁勇の三つを心得、色酒奕のあしき経に不遊、朝夕おきふし共心手ゆるみなく、精神をはげまし、仮にもうそいつわりのこころをいましめ、なを勝負の懸引に臨んでは、聊も相手に用者(容赦)之心なく、侮どられず恐れず氣を旦然(丹田)に納め、少しも他の謀り事を思わず、押手さす手ぬき手の早き業を胸中に察して、つく息引息に随い其きよ実(虚実)をしり、勝を決するものなり」
暴行事件を受けて相撲協会では力士を集めて講習などを行っているようだが、この心得を再度徹底させたらどうか。こういう心得を書いた横綱がいた、と言うことも一向に報道されないので敢えてここにご報告する次第。

本年も宜しくお願い致します。