2018年4月3日火曜日

制度と運用

モリカケ問題では忖度が横行し、その元凶として内閣人事局が槍玉にあげられている。官僚幹部の人事を握っているから要らざる忖度が生まれてしまうと。本当に本気でそんな事を思っているのだろうか。
十年前盛んに言われた言葉がある。「脱官僚」という言葉だ。行政の肝を官僚が握り、政治家は単なるお飾りに過ぎないような状況を変えなければいけない、という事だった。当時、人事院総裁のテレビインタビューを見ていたら「国民のため、たとえ政権が変わっても中立を保つ」と堂々と発言していた。「選挙で選ばれた政党が右だろうが左だろうが自分らのやりたいようにやる」と言っているように聞こえた。
そして「政権交代」と「脱官僚」を旗印に掲げた民主党が総選挙で勝利し、念願の政権交代を果たした。もう一つの念願である脱官僚はどうなったのだろう。
人事を掌握する事により政権の意図を無視できないようにする、というのはその第一歩ではないか。制度は決して悪くないはずだ。問題なのはそれを運用する人間の側にある。政権中枢が、おだててお仲間の便宜を図れば喜ぶだろうと、舐められているからいけないのだ。私利私欲を追うような、そんな下劣な人間ではないぞ、とはっきり態度で示せばよい。政権構想実現のためになした忖度は評価し、国益を害するような忖度は厳しく罰する、そういう姿勢を見せれば自ずから脱官僚・政治主導の姿が実現するはずだ。
ただ、そのためには政治家は明確なビジョン・政権構想を持ち、高潔な人格を備えていなくてはならない。それを今の政治家に求めるのは無理なのだろうか。たとえ制度の理想は高邁であっても、それが機能するためには運用する人間の質が問われるのは共産主義でも示された事ではあったのだが。

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