2018年7月31日火曜日

片思い


オウム真理教関連の事件で死刑判決を受けた十三人全員の死刑が執行された。その多くは五十代、中には四十八の人もいる。恐らく彼等のご両親はまだ健在ではなかろうか。我が子の死刑の執行にどんな思いでおられるのだろう。
親が子を思う気持ちは、実際に子を持った者でないと分からない。子は自分の幸福のためなら親を踏み台にする事を躊躇わないが、親は自分の幸福を犠牲にしてでも子の幸福を願う。
オウム信者の多くは出家の際に親と衝突し、親の意見に逆らう形で出家している。その時にもうあの子はいないものと思った親もいるだろうが、しかしいざその死を目の当たりにすると様々な思いが去来するに違いない。まして洗脳から目を覚まし、過去を悔い、少しでも償いをしようとする我が子の姿を見たら、胸が張り裂けんばかりの気持ちだろう。皆入信前は優秀な自慢の息子だったのだから。
一方子から見た親はどうか。逆に死に臨んで彼等死刑囚の脳裏にそのご両親はどう浮かんだのだろう。親よりもむしろ松本死刑囚への恨みや思慕の方がより強かったのではないか。
哀しいかな親の子への思いはいつも片思いである。オウム関連死刑囚も子を持って見ればようやくその時、親達が自分をどう思っていたかを知ることが出来ただろうに。
私の父は母が亡くなって十年間一人暮らしをしていた。その父が死んだ時、遺品を整理しているとある手帳が出てきた。将来の予定がいろいろ記入されている中、私が定年を迎える年には「勝が帰ってくる」と書かれていた。一人暮らしの寂しさの中で私と一緒に暮らしたいと願っていたのだ。その思いも知らず、ああ僕は何と薄情だったのだろう。

今にして知りて悲しむ父母が 
  我にしまいしその片思い  
   窪田空穂

2018年7月24日火曜日

酷暑


暑い。新聞は一面トップに「酷暑列島」の見出しを出した。七月もまだ上旬で夏休みまで随分間がある頃から続く暑さ。スペインから神戸に来たイニエスタが最初に覚えた日本語が「アツイ」だと言うのも分かる気がする。
市の防災アナウンスが「外での活動は控えましょう」と諭している中、テニスをやっている。それを見て「馬鹿じゃないか」と呆れている人もいるらしい。それも午後三時から五時のチームならコート脇の木立が落とす影にプレーの合間の短い時間逃げ込む事も出来るが、十一時から一時だと影一つない所でのプレーになる。テニスは本当に夏のスポーツなのだろうかと疑問が湧いてくる。
それでも我々は遊びだからいい。災害の後片付けをしている人はさぞ辛いだろう。好き好んで外に出ている訳ではない。水分補給もままならない。明日からの生活を思う精神的辛さもさも併せて加わって、本当にお気の毒だとしか言いようが無い。
それにしても豪雨時のダムの放流は如何なものか。本来豪雨から下流を守るべきダムが逆に加害者になってしまった。あの時点で放流しなければダムそのものが決壊してより重大な被害をもたらす可能性があった、という理屈は分かる。しかし本当に最善を尽くしたのか。豪雨の予報はずっと前から出ていたのだから、予め放水しておいて雨の前にダムを空にしておくとか、そんな対策はちゃんとなされたのだろうか。
被災地を悩ますこの暑さはいつまで続くのか。暑さを表現する言葉は、酷暑、猛暑の他に大暑、炎暑、極暑、炎熱、苦熱などがあるらしい。苦熱とは「さながら釜の中にあるよう。耐え難く苦しい程の暑さ。暑さの苦しみ」とある。こんな言葉があるという事は昔からそんな事があったという事だ。まさかこれから酷暑列島が苦熱列島なんかにならなければいいが。

2018年7月17日火曜日

高山彦九郎


京都の三条大橋の東のたもとには、いかつい顔をした男が土下座のように御所の方向を望拝する大きな像がある。その像に刻まれた名前は高山彦九郎正之。一体どんな人なのだろうと疑問に思っていた。
先日群馬県太田市に行く機会があり、いろいろ調べるとそこは高山彦九郎の生地らしい。高山彦九郎宅跡、高山彦九郎記念館、高山神社と彼に関する史跡や施設が沢山あった。
今回改めて調べた所によると、江戸時代にいち早く尊王思想に目覚めた寛政の三奇人の一人。戦前の教科書には楠木正成と並んでよく登場したらしい。田沼時代から寛政の改革の頃活躍した人で、確かにその時代は朝廷に比べて幕府の力が圧倒的に強かった(光格天皇による尊号一件はその頃の事件)から、その時期に尊王を唱えるのは如何にも奇人と呼ぶにふさわしい。
幕末になって尊王の志士たちが活躍するようになると、改めて彼の生涯に注目が集まり、高山彦九郎記念館の近くにある彼の遺髪塚には高杉晋作や久坂玄瑞も参拝したそうだ。また彼の戒名は「松陰以白居士」で吉田松陰はここから名前を取ったとも言われている。
明治の初めには彼を祀る高山神社が創建された。太田市の中心部に程近い天神山にあるその神社に行って驚いた。平田の愛宕山ほどもあろうか、小高い山というより丘とも言うべき所にまっすぐ上に向かって階段が続いており、その頂上には立派な鳥居が見える。そこまで登れば鳥居の先に立派な社殿が待ち構えているはずだった。しかしそこには石造りの基壇があるばかり。基壇の中は黒い灰のようなものがある。社殿は四年前放火で焼失したとの事。こんな無残な風景に接するのは初めての経験だった。
因みに高山彦九郎は全国を旅し、出雲にも立ち寄っている。高山彦九郎日記に出雲がどう登場するのか興味がある。

2018年7月10日火曜日

貿易戦争


米中の貿易戦争の先行きが心配だ。新聞記事の一部は次のように書いている。「中国は(中略)大豆や豚肉などの米産品への報復関税を発動させると表明してきた。トランプ大統領は既に、輸入鉄鋼やアルミニウム、太陽光バネル、洗濯機への関税を導入している。」

常識と照らし合わせると何かおかしい。長い間、先進国が後進国に対して工業製品を輸出し、後進国が先進国に農産物を輸出するというのが一般的だと思っていたが、実態はそうでもないようだ。まさか米国に比べて中国の方が先進国であるという訳ではなかろうに。

米国と中国の経済というと1992年を思い出す。その頃約一年半の米国生活を終えて日本に帰る頃だった。お世話になった大学の先生の所にお別れの挨拶に行った時「今、中国の経済が凄いみたいだね」と言われたのが鮮明に記憶に残る。「中国 改革解放」というキーワードでネットを検索すると「1992年以降、再び改革開放が推し進められ、経済成長は一気に加速した。」との記述に出くわす。1992年はまさに中国経済が離陸する時期だったのだ。丁度同じ頃、巷では「ニューヨークダウが3000ドルを突破した。凄いなあ」という声が聞こえた。そのダウは今や24000ドル以上にまで上がった。
1992年と比べて中国のGDPは百六十倍になった。米国の株価は八倍になった。一方日本はGDPも株価も停滞したままだ。ジャパンアズNo1などとおだてられていい気になっている内に、一人当たりGDPでは世界25位にまで後退した。マカオ、シンガポール、香港は日本より遥かに豊かな国になった。そんな借金まみれの貧乏国が北の非核化費用まで負担させられようとしている。それでいいのか。日本はいつ目覚めるのだろう。

2018年7月3日火曜日

サッカー

W杯予選リーグの最終戦対ポーランド戦を見ていて我が目を疑った。負けているにも拘わらず日本チームが戦う意思を見せずボールを廻し始めたからだ。勝っていて勝ち逃げを目指すならともかく、負ける事が分かっていて戦いを放棄するような行為はサムライの名を辱めるものと思われた。
案の定、翌日にはネットやメディアで批判と容認の賛否両論が溢れた。苦渋の決断をした西野監督も「こういう場所(16強)に来たにもかかわらず、素直に喜べない状況をつくってしまったのは申し訳なかった。」と語ったらしい。海外メディアの「フェアプレーをないがしろにしてフェアプレーポイントで勝ち上がるとは、何という皮肉だろう。」という批判が誠に当を得たもののように思えた。
私の第一感は「お金を払って試合を見に来ている観客の人に失礼だろう」という思いだった。試合の醍醐味は選手が全力で戦う事にあり、全力で戦うとはリスクを冒してでもよりよい結果を目指す姿勢にあると思う。対セルビア戦の乾選手にそれを感じた。本田選手による同点ゴールをアシストした乾選手だが、本田選手に出したパスはゴールラインを割る寸前に蹴ったボールだった。そのボールはセルビアの選手に当たっていたので、見逃せばコーナーキックになって、態勢を整えての攻撃につながる可能性もあった。乾選手は敢えてリスクを冒してボールを中に蹴り込み、本田選手の同点ゴールを生んだ。素晴らしい判断だった。
観客や海外メディアのブーイングを受けてまで勝ち取った決勝トーナメント進出。苦渋の決断が正当化されるのは結果を出すしかない。決勝トーナメントを勝ち上がる事だ。優勝の二文字こそが全てを正当化する。間違っても一回戦敗退という事のないように。強敵ベルギー相手ではあるが。