2018年8月28日火曜日

基本

アジア大会の女子バドミントン、中国を破っての優勝に喝采した。見ていて感心したのは選手が皆基本に忠実だという事だ。
バドミントンのダブルスの場合、攻撃の時はトップ・アンド・バック、防御の時はサイド・バイ・サイドがポジショニングの基本だ。相手コートに強い球を打ち込んだり、ネット際に低い球を落とした時には縦に前後に並び、逆に高い球を返した時はさっと左右に陣取る。それを素早く繰り返す選手たちの動きを見ていると実に気持ち良い。
そして足元を見ていると、小さいながら必ずスプリット・ステップをやっている。これはあるタイミングで両足をチョンと上げる動作で、テニスのプロ達も必ずやる。そして当然のように、球を待つ間は常に足を動かし、打つ瞬間はしっかり足を止めて打つ。
そうした基本動作が無意識の内に自然に出来るようになる事は勝利の必要条件なのだろうが、我流でやってきて基本の出来ていない私などはなかなかそれが出来ない。スプリット・ステップの重要性を頭では分かっていても体が動かないし、足を動かさなければいけないとき足が止まって、足を止めて打たなきゃいけないとき足が動いている。
人生というゲームにおいてはどうだろうか。
人生のゲームは如何に幸せになるか、を争うものだと思っている。そして幸いそのゲームはゼロサムゲームではなく、回りにより多くの幸せを与えた人が勝利するような仕組みになっているらしい。そのゲームにおける基本は何か。おそらくあまり贅沢をしない、他人を不快にしない、などがあろうが、全く逆に不必要に威張り散らしたりしてないか。
ボランティア活動に活躍する尾畠春夫さんを見て、ひょっとしたらこの人はそうした人生というゲームの基本をきちんと会得した人なのかも知れないと思った。

2018年8月21日火曜日

自他の境目

善悪や価値判断だけに限らず、何事でも境目というものはそんなに明確なものではないようだ。
一番はっきりしていると思える自分とそれ以外の境目でさえそうだ。これほど明確なものはなかろうに、よくよく考えてみると結構曖昧だ。
目の前にコップ一杯の水がある。これは確かに自分ではなさそうだ。だがそれを口に含んだらどうだろう。飲み込む前で、まだ吐き出すことの出来る状態ならまだ自分ではなさそうだが、飲み込んだらどうか。食道の中をすべり落ちる水は自分かどうかかなり曖昧だ。胃まで到達して体内に吸収されたら、流石にそれを自分ではないとは言い切れまい。
出る方だってそうだ。小便はいつから自分でなくなるのだろうか。膀胱に蓄えられている時はもう自分ではないような気もする。腎臓の糸球体で血液が濾されて尿になった時、自分でなくなったと考えるべきだろうか。汗はどうだろう。髪の毛はどうだろう。爪はどうだろう。垢やフケはどうだろう。
目には見えないが空気中を飛び回っている酸素分子は次の瞬間呼吸によって肺の中に入って、数秒後には自分の体の一部になっているかも知れない。
人間の体は60兆個の細胞からできているらしいが、その細胞は75日から3ヶ月で入れ替わるそうだ。自分の体と言っても物質的には半年前とは全く別物になっているわけだ。自己とは宇宙という大きな溶液の中に出来た煮凝りのようなもので、死んだ後にはまた溶けて個々の原子は宇宙のどこか別の煮凝りの一部になっているかも知れない。
テレビの某番組での聞きかじりだが、華厳経は「世の中のあらゆるものはつながり合い、そこに個々の区別はない」と説いているらしい。この考えを突き詰めればいくらかでも死の恐怖から逃れられそうな気がするがどうか。

2018年8月14日火曜日

境目

善悪の境目はどこにあるのだろう。
日本ボクシング連盟の前会長は「自分は何も悪い事はしていない」と仰った。告発者達は全く別の見解を持っているはずだ。刑法を善悪の境目にすれば、確かに判定に依怙贔屓や手心を加えることなど、法に触れる訳ではなさそうだ。だが一般には倫理や矜持など、より厳しい境目を自分に課している人の方が多いだろう。ただ、自分が反省する時と、他人を批難する時とで境目が変わってしまうのは人間の性として仕方ない事か。
マイケル・サンデルの白熱教室で面白い議論があった。企業が社員を採用するに当たって見た目を基準に選考するのは許されるのか。例えば飲食店などの接客業が、より多くのお客に来てもらうため可愛らしい女性を優先的に雇うのは道義的に許されるのか。多くの受講者が企業は利益追求が目的でそれは仕方ないとの考えを示したが、人種を理由に採用の可否を判断することには殆どの人が反対した。見た目による差別は良いが人種による差別はいけない、その境目は何だろう。
普通採用試験は筆記試験で一定の知識や能力を確認し、面接によって意欲(と見た目?)などを確認するが、そもそも知識や能力の方が見た目より重視されるべきだという考えはどこに根拠があるのか。人種や見た目など本人の努力ではどうしようもない所で選別するのは不公平だという意見が多かったが、しかし知識や能力だって生まれながらの要素がかなりあるではないか。これだって境目がよく分からない。
白熱教室の議論を聞きながら思った。古今多くの人が恋人選びに際し見た目を基準にしてきて、それが批難されるのを聞いた事が無い。見た目重視が恋人選びの時は許されて、企業の採用の時には許されないとしたら、その境目はどこにあるのだろう。

2018年8月7日火曜日

改竄・書換・訂正

お役人さんとは随分とつらい仕事のようだ。余計な忖度などせず、自分の信念に従って仕事をすればよいのに、と思っていたし、当コラム508回にも「出世に影響はあろうが、命までとられるわけではあるまいし」と書いた。ところが、命まではとられないにしろ、刑務所にぶち込まれるくらいは覚悟しないといけないようだ。
文部科学省が汚職事件で揺れている。事務次官室も捜索対象となり、幹部の中には公用、私用の携帯電話を押収されて荒探しをされている人もいるらしい。確かに接待を受けて、業務に便宜を図るのは良くない。しかし、宇宙飛行士を講演会に派遣するよう便宜を図る事より、公文書を書き換えてしまう事の方がどれだけ悪質、かつ国益を損なうか言うまでもない。
それなのに一方は逮捕起訴され、一方は全くお咎めなし。逮捕されたのはかつて喜平隊の一員、前川喜平氏に近い人だったとも聞く。俺に逆らったらどうなるか見ておけ、とでも言うのだろうか。
文藝春秋の最新号では中村喜四郎氏の「安倍恐怖政治が自民党をダメにした」という記事が載っている。そこで彼の曰く「我々は今『この六年間が日本を変えてしまった。』と後の世代に疎まれるほどの忌まわしい歴史の渦中にあるのです。」と。これが単なる杞憂に終わる事を祈る。
財務省の文書は改竄か書換か不毛な議論があったが、今回のは純粋な訂正です。最近ある熱心な読者から過去のものも含め誤字の指摘を受けました。それをここに訂正させて頂きます。
571回下段本文左から四行目。私を一緒に私と一緒に
358回上段左から三行目。八ちぁん八つぁん
221回中段中央右から三行目 scholl→school
既にお気付きの方もいらっしゃるかも知れません。今後このような事のない様注意します。