2018年8月21日火曜日

自他の境目

善悪や価値判断だけに限らず、何事でも境目というものはそんなに明確なものではないようだ。
一番はっきりしていると思える自分とそれ以外の境目でさえそうだ。これほど明確なものはなかろうに、よくよく考えてみると結構曖昧だ。
目の前にコップ一杯の水がある。これは確かに自分ではなさそうだ。だがそれを口に含んだらどうだろう。飲み込む前で、まだ吐き出すことの出来る状態ならまだ自分ではなさそうだが、飲み込んだらどうか。食道の中をすべり落ちる水は自分かどうかかなり曖昧だ。胃まで到達して体内に吸収されたら、流石にそれを自分ではないとは言い切れまい。
出る方だってそうだ。小便はいつから自分でなくなるのだろうか。膀胱に蓄えられている時はもう自分ではないような気もする。腎臓の糸球体で血液が濾されて尿になった時、自分でなくなったと考えるべきだろうか。汗はどうだろう。髪の毛はどうだろう。爪はどうだろう。垢やフケはどうだろう。
目には見えないが空気中を飛び回っている酸素分子は次の瞬間呼吸によって肺の中に入って、数秒後には自分の体の一部になっているかも知れない。
人間の体は60兆個の細胞からできているらしいが、その細胞は75日から3ヶ月で入れ替わるそうだ。自分の体と言っても物質的には半年前とは全く別物になっているわけだ。自己とは宇宙という大きな溶液の中に出来た煮凝りのようなもので、死んだ後にはまた溶けて個々の原子は宇宙のどこか別の煮凝りの一部になっているかも知れない。
テレビの某番組での聞きかじりだが、華厳経は「世の中のあらゆるものはつながり合い、そこに個々の区別はない」と説いているらしい。この考えを突き詰めればいくらかでも死の恐怖から逃れられそうな気がするがどうか。

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