善悪の境目はどこにあるのだろう。
日本ボクシング連盟の前会長は「自分は何も悪い事はしていない」と仰った。告発者達は全く別の見解を持っているはずだ。刑法を善悪の境目にすれば、確かに判定に依怙贔屓や手心を加えることなど、法に触れる訳ではなさそうだ。だが一般には倫理や矜持など、より厳しい境目を自分に課している人の方が多いだろう。ただ、自分が反省する時と、他人を批難する時とで境目が変わってしまうのは人間の性として仕方ない事か。
マイケル・サンデルの白熱教室で面白い議論があった。企業が社員を採用するに当たって見た目を基準に選考するのは許されるのか。例えば飲食店などの接客業が、より多くのお客に来てもらうため可愛らしい女性を優先的に雇うのは道義的に許されるのか。多くの受講者が企業は利益追求が目的でそれは仕方ないとの考えを示したが、人種を理由に採用の可否を判断することには殆どの人が反対した。見た目による差別は良いが人種による差別はいけない、その境目は何だろう。
普通採用試験は筆記試験で一定の知識や能力を確認し、面接によって意欲(と見た目?)などを確認するが、そもそも知識や能力の方が見た目より重視されるべきだという考えはどこに根拠があるのか。人種や見た目など本人の努力ではどうしようもない所で選別するのは不公平だという意見が多かったが、しかし知識や能力だって生まれながらの要素がかなりあるではないか。これだって境目がよく分からない。
白熱教室の議論を聞きながら思った。古今多くの人が恋人選びに際し見た目を基準にしてきて、それが批難されるのを聞いた事が無い。見た目重視が恋人選びの時は許されて、企業の採用の時には許されないとしたら、その境目はどこにあるのだろう。
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