2018年11月27日火曜日

杞憂

日本で起きた事件が海外でどのように報道されているか心配になる事がたまにある。
カルロス・ゴーン氏の逮捕もその一つだった。海外から帰国した飛行機に地検が乗り込んでの有無を言わさぬ逮捕劇だった。ゴーン氏の驚きはいかばかりだったか。彼がなしたと伝えられる悪事はその通りだったとして、そうした事実とは別に、被疑者を拘束する強引さには違和感を感じる。海外メディアからは「日本には推定無罪の原則はないのだろうか」という意見も出ているようだ。刑事訴訟法という法律に則った、よもや不法な手続きではないはずだが。
中国では人権派と呼ばれる弁護士が当局から不当と思える干渉を受け、多数の逮捕者が出ているらしい。彼らは家族との面会も許されていないとか。中国は憲法より共産党の方が上にあるような国だから、そうした事も理論的には合法なのだろうが。欧米人から見て、日本や中国では政府に睨まれたら何でもやられてしまう、というような悪い印象が起きなければいいがと心配だ。
それよりもっと心配な事件があった。滋賀県高島市の事故だ。自衛隊の訓練中に打たれた迫撃砲弾が的から約1km北にずれて、演習場の外に駐車していたワゴン車の窓ガラスを割った。しかもすぐには発射ミスに気付かなかったという。幸い人的被害はなく、関係者からは「大きな被害につながった恐れがあり、今後は注意する」と胸をなでおろすかのようなコメントも出ている。
何を暢気な。一番の心配は、被害の大小もさることながら、自衛隊の技量の問題だろう。たった2,3km先の的に正確に当てる事も出来ず、着弾点も確認出来なくて本当に国を守る事が出来るのか。海外から自衛隊が侮られて外交に悪影響を与えなければいいが。
ああ、全てが杞憂であって欲しい。

2018年11月20日火曜日

万歩計

埼玉県では希望者に対して万歩計を配布し県民の健康維持の一助としている。私の住む幸手市はさらに歩数に応じたポイントを付与し、やる気を喚起している。市役所や各地区の公民館に置かれた端末に万歩計をかざすと、データが読み取られ歩数履歴が記録される。データは自宅からもネットで確認できるし、一万歩以上歩けばボーナスポイントも加算される。
数か月前、その制度を知ってからそれまで自動車や自転車で行っていた所に徒歩で行くようになった。夕方買い物から帰って歩数が九千八百歩であったら、残りの二百を稼ぐために居間で足踏みしたりしている。
その万歩計を携えて出雲に帰り、驚いた。歩数が稼げない。
今まで出雲では車がないと生活できないと思っていた。スーパーへ買い物に行くのも車、ファミレスで外食するのも車。自転車に乗るのはせいぜい運動不足を実感する時くらいだった。だが今回街が意外に小さい事に気付いたのだった。最寄りのファミレスまでせいぜい片道で千六百歩、スーパーまではわずか千百歩しかない。家でゴロゴロしているだけだと二千歩を越える事はまずない。これだと一日一万歩を達成するのは大変だ。
埼玉では往復で六千歩ほどかかるドラッグストアに良く買い物に行っていた。テニスを二時間やっても凡そ六千歩稼げる。そうして可成りの割合で一万歩を達成していたのに。
車がないと生活できないというのも強迫観念に囚われた誤った認識であったようだ。基本的生活は徒歩で十分できる。ちょっと遠くへ行くのも電車やバスに徒歩を組み合わせ、少し時間はかかるが出来ない事はない。
歩数を気にするようになって、私はスーパーでのまとめ買いをやめた。必要になればその都度歩いて買いに行けばいい。時間の無駄と言う負い目を感じない様に、録り溜めたラジオ番組を聴きながら。

2018年11月13日火曜日

六か月

凡そ半年ぶりに出雲に帰省した。六か月という時間は生き物にとってどんな長さなのか。
植物にとっては生命力を誇示するのに十分な時間のようだ。庭に雑草が生い茂るのは想定内だとして、玄関先のタイルの目地のわずかな土に堂々と根を張っている草を見ると思わず脱帽したくなる。それだけではないコンクリートの細いクラックにも名も知らぬ草が根を張っていた。
昆虫にとっては長すぎる時間だったか。家の中に入ってみると、主のいなくなった空間を我が物顔に走ったり飛んだりしたであろう小さな虫の死骸が見受けられる。ゴキブリが力尽きて野垂れ死にしているのはまあ理解できるとしても、窓枠に蜂の死骸を見たときはびっくりした。どうやって部屋の中に入ったのか。箪笥を置いた入隅などに蜘蛛の巣があるのも驚きだ。こんな所で陣取っても獲物を捕らえる可能性は殆どないだろうに。
人間にとっての六か月はどうか。ケーリー・グラントとデボラ・カーが主演する「めぐり逢い」では六か月が一つのキーワードのように出てくる。物語はケーリー・グラント演じる名うてのプレーボーイ、ニッキーがヨーロッパからニューヨークへ向かう船の中で出会った女性テリーに魅せられその人生を変えていく話だが、船で運命的な出会いを果たした二人が下船後再会を誓うのが六か月後、その時の悲劇からどんでん返しの結末までがやはり六か月。
船に乗る前に既に大富豪の娘と婚約が整っていたニッキーだが、ニューヨークに到着後インタビューで結婚はいつの予定か聞かれた時、既に婚約者から心の離れたニッキーは「六か月後だ」と答える。あたかもそれが永遠の未来であるかのように。
真意を確かめたり、諦めたり、決心を固めたり、それが六か月なのだろうか。

2018年11月6日火曜日

国境の壁

ホンジュラスがどんな国か知らない。大統領の治める共和国ではあるらしい。そこから大量の移民がアメリカを目指している。川を素足で渡ろうとする長い行列を見ると彼等の強い意志を感じる。それに対してアメリカは国を閉ざす考えのようだ。
かつて東西冷戦の時代には東側諸国の人々が西への移住を試み、それを阻止するため東側諸国が国民の逃亡を防ぐために壁を作った。今回は国民が逃げ出そうとする国はそれを静観し、移住先の国が移入を阻止するための壁を作ろうとしている。この二つの対比はどう考えたら良いのだろうか。
国家と国民の関係は、国家が治安や社会インフラなどを提供し、国民がその対価として税を払いサービスを享受するという関係で、消費者が製品を価格と質のバランスで自由に選べるように、国家が提供するサービスの質と対価としての税のバランスで世界中の全ての人が国家を自由に選べるのが理想ではないかと思っていた。そうした一種の市場原理があれば企業経営者が製品の質の向上と価格低減を目指すように、政治家も自ずから善政に努め、適正な税で良好な社会を作るようになるはずだと。
ベルリンの壁は、優れた製品を作り出すことに失敗した経営者が自社の製品を無理矢理下請け企業や従業員など関係者に買わせようとしているように見えた。だが今回のホンジュラスは違う。治安の悪化や経済の停滞を放置するのは、自社の製品が売れなくても構わないと居直っているようだ。企業なら倒産すればそのトップは債務に苦しみ、辛い日々を送ることになるところだろうが、国家では経営破綻によるトップへの鉄槌は下らないのだろうか、革命や敗戦による死以外には。トランプ大統領に尋ねてみたい。人々が住みたいと思う国は良い国のはずなのに正な税で、00000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000と。