2018年12月25日火曜日

この一年


今年も後残りわずか。皆様の今年の一年はどんな年だったでしょうか。

毎年最後にはその年に読んだ本や見た映画で印象に残ったものをご紹介する事にしているが、今年はこれと言ったものがない。

本に関してはビット・コインに関連するものを良く読んだ。暗号データがどうしてお金として機能するのか、そもそもそれを支える技術はどんなものか、などに興味があった。「デジタル・ゴールド」という本はそうした疑問にある程度答えてくれた。お金とは皆がそれをお金と認めた時、お金になる。それは貝殻でも紙切れでも暗号でもなんでもいいが、とにかく皆がお金として認める事が必須の条件だ。ビットコインを考え出したサトシ・ナカモト氏もそこが一番の関心事だったようで、最初色んな人にメールを出してこれをお金として認めてくれるよう頼んだりしている。興味本位の人や、技術の革新性に気付いた人達が少しづつ賛同の輪を広げていった様子が上記の本に描かれていた。

そしてビットコインを成立させているブロック・チェーンの革新性もワクワクさせる。人間が不正をしないため、今は国家や公権力が監視する社会だが、ブロックチェーンは不正をするくらいなら正しい事をした方が得する仕組みであり、関係者が公権力の監視がなくとも自発的に正しい事をするような仕組みになっている。これは民主主義や市場原理に匹敵する新しい人類の宝になるような気がする。

そして何より今年は音楽や旅や人や様々な出会いがあった。人に関してはお互いに誠意と敬意をもって接する事の素晴らしさと大切さを実感させられた。誠意と敬意がもたらす幸せをおろそかにしてはいけない。それこそが生きている事の意味なのだ、と。
年明けは八日からお目にかかります。皆様良い年をお迎え下さい。

2018年12月18日火曜日

気の遠くなる話


ゴーン氏を初めとする欧米の企業経営者達の強欲さにはうんざりする。数百億の報酬を得てなおも飽きる所がない。百億とは気の遠くなるような金額だが、世の中を見渡せばマイクロソフトのビル・ゲイツ氏とかアマゾンのジェフ・ベゾス氏のように兆を超える資産を持つ人もいる。そう思った時ゴーン氏の拘りを理解したような気がした。数字の桁を万単位で下げて見ると、百億は百万、兆は億だ。世の中に億以上の貯金を持つ人が沢山いるのを知ると、百万程度の貯えでは安心できまい。

時間と空間でも気の遠くなるような話が新聞の片隅にあった。41年前に打ち上げられたボイジャー2号が太陽圏を離れたと。太陽圏とは太陽風の届く範囲を言うらしい。その外の太陽の引力が及ぶ範囲を太陽系と呼び、同機が太陽系を脱出するのは3万年先だとか。人類が歴史を刻み始めてから凡そ3千年としてもその十倍だ。気の遠くなる話だが、その頃の人類が同機の事を覚えていてくれればいいが。

それでも太陽系は宇宙のほんの一部に過ぎない。それだけ広大な宇宙、そこに人間以外の知的高等生物が存在しないはずがない。それがどうして地球と接触しないのか。「銃・病原菌・鉄」で優れた文明史観を披露したジャレド・ダイヤモンド博士の推理はこうだ。「地球以外に知的高等生物は必ずいる。彼らが地球に接触しないのはそうなる前に絶滅しているからだ。知性の必然的成果として彼らは大量破壊兵器を造り出しているに違いない。それによって、外の生命と接触する技術・能力を得る前に自滅しているのである。」

彼の予想では人類の絶滅は2045年頃ではないかと。出来ればそんな大悲劇に立ち会いたくはないものだが、意外に長生きしたりしてひょっとするとなどと考えるとまた気が遠くなる。

2018年12月11日火曜日

市場原理


地方自治体の水道事業の民間委託を可能にする水道法改正案が可決された。人口減や水道管の老朽化等の課題に対し、民間のノウハウを活かしコスト削減などの経営改善を進めるというのだが、果たしてそんなにうまく行くのだろうか。

民間企業がコスト削減の努力をするのは市場における競争に勝つためであり、利益を上げるためである。自治体がやって採算の取れない事業を民間がやればうまく行くというような単純なものではないはずだ。

民間事業の基本原理は利益追求であって慈善事業ではない。私利私欲の追求という強烈な原動力を利用して資本主義社会は発展して来た。それを支えてきたのは市場における競争である。民間企業があこぎな事や杜撰な事をしないのは、聖人君子だからではなく、そんな事をすれば市場からはじき出されるからである。市場と言うたががあるからこそ秩序が保たれて来たと言ってもいいだろう。

水道事業においてそうした競争原理が働くのだろうか。一つの地域に複数の企業が併存し、品質と価格を勘案してある人はA社から水を買い、またある人はB社から買う、なんて事が出来るのだろうか。一企業が事業を独占すれば価格が高止まりするのは眼に見えている。

監視をしっかりやれば良い、という意見もありそうだ。だが監視をする側も人間だ。癒着が生じないと断言できる人はいないはずだ。関係者が聖人君子でなければ機能しないような仕組みはうまくいかない気がする。共産主義が失敗したのも人間が聖人君子ではあり得なかったからではないか。

かつて年金記録の管理の杜撰さが問題になった時、民間ならこんな事はあり得ないと言われた。その一方で耐震偽装問題の時は、建築確認は民間に任せられないと言われた。水道事業は果たしてどうか。

2018年12月4日火曜日

報酬


先週の杞憂、案の定ウォール・ストリート・ジャーナルは27日ゴーン氏の逮捕拘留を「中国の出来事か」と皮肉を交えて日本の司法制度を批判したらしい。それにしても法外な年俸には義憤を禁じえない。

先週の週刊新潮には日産の従業員の声が載っていた。「ノルマが厳しくなる一方で圧倒的に検査器や人手が足りずに現場が回っていなかった」と。経営者の高額な報酬は、まず企業活動が円滑に動くだけの投資をし、その後の余剰資金の中から支払われるべきものであろう。本来生産設備や検査機器に回すべき資金を横取りしていたとすれば言語道断だ。

仮に余剰資金の中からであったとしても疑問は残る。それを報酬に充ててしまっていいのか、内部留保として将来に備えるか、は別問題だ。プロのサッカー選手や野球選手が高額の年俸を受け取るのとは訳が違う。スポーツ選手の場合は受け取る者と支払う者が別人格として存在し、支払う側が相手の実力に応じて、宣伝効果や観客動員などの効果を認めそれだけの商品価値があるとして価格を決定しているからだ。自分で自分の報酬を決めるのはお手盛りと言うしかない。

企業経営者の報酬の適正額はどう決められるべきだろう。例えばこういうのはどうか。社長になりたい人が数人立候補する。荒唐無稽な人が立候補しても困るので取り敢えず取締役の中からとでもしよう。立候補者は自分の年俸はこれだけ欲しいと自己申告し、同時に業績目標を掲げ、それを達成したらその暁には十億円頂きます、と宣言する。そうした複数の候補者から株主総会での選挙で社長を決定する。これなら高額報酬も納得できよう。

かつてオプションの価格の理論式でノーベル賞を貰った経済学者がいた。経営者の報酬の理論的妥当値を研究する人はいないのだろうか。