2018年12月4日火曜日

報酬


先週の杞憂、案の定ウォール・ストリート・ジャーナルは27日ゴーン氏の逮捕拘留を「中国の出来事か」と皮肉を交えて日本の司法制度を批判したらしい。それにしても法外な年俸には義憤を禁じえない。

先週の週刊新潮には日産の従業員の声が載っていた。「ノルマが厳しくなる一方で圧倒的に検査器や人手が足りずに現場が回っていなかった」と。経営者の高額な報酬は、まず企業活動が円滑に動くだけの投資をし、その後の余剰資金の中から支払われるべきものであろう。本来生産設備や検査機器に回すべき資金を横取りしていたとすれば言語道断だ。

仮に余剰資金の中からであったとしても疑問は残る。それを報酬に充ててしまっていいのか、内部留保として将来に備えるか、は別問題だ。プロのサッカー選手や野球選手が高額の年俸を受け取るのとは訳が違う。スポーツ選手の場合は受け取る者と支払う者が別人格として存在し、支払う側が相手の実力に応じて、宣伝効果や観客動員などの効果を認めそれだけの商品価値があるとして価格を決定しているからだ。自分で自分の報酬を決めるのはお手盛りと言うしかない。

企業経営者の報酬の適正額はどう決められるべきだろう。例えばこういうのはどうか。社長になりたい人が数人立候補する。荒唐無稽な人が立候補しても困るので取り敢えず取締役の中からとでもしよう。立候補者は自分の年俸はこれだけ欲しいと自己申告し、同時に業績目標を掲げ、それを達成したらその暁には十億円頂きます、と宣言する。そうした複数の候補者から株主総会での選挙で社長を決定する。これなら高額報酬も納得できよう。

かつてオプションの価格の理論式でノーベル賞を貰った経済学者がいた。経営者の報酬の理論的妥当値を研究する人はいないのだろうか。

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