2019年1月29日火曜日

八百長


大坂選手の全豪優勝は新女王誕生を思わせる見事なものだった。そんな時にこの話題、水を差すようで申し訳ないがお許し願いたい。
全豪オープンでは初めてテニスの試合で両者の勝敗予想が表示されるのを見た。それも試合開始前のものと共に、試合の経過に従って刻々と変わっていく。
こうした予想がデータ化される裏には賭けが行われている事を想像させる。事実111日の読売新聞の社会面には「テニス八百長83人拘束」という記事が載った。記事によると男子ツアーの中でも格付けの低い試合で八百長や賭博行為が行われていたという。八百長は賞金額の低い下部大会で横行していたというから、なくす名声のない選手が賞金と裏金を天秤に掛けていたと見るべきか。
それにしてもテニスで八百長をやられたらそれを見破るのは至難の業だ。真剣に戦っている試合でもミスショットはある。それを大事なポイントで意図的にやられたらそれが八百長だと気付く人はほとんどいないだろう。
囲碁や将棋も(そんな事は絶対ないと思うが)もし八百長をやられたら素人にそれを見破る事は不可能だ。
相撲では八百長を疑う時がたまにある。地方巡業で行われるものでは特にそうだ。相撲で上手に八百長をやるのは演技力が必要で結構難しいと思う。
八百長である事が分かっていて楽しむものがある。プロレスがそうだ。いやプロレスはスポーツではなく、一種の演劇と言うべきだろう。豊登が悪役に反則技で苦しめられ、満を持して力道山が空手チョップを繰り出すのは、水戸黄門が葵の紋の入った印籠を見せて悪代官をやっつけるのと同じ趣向だ。
そう思うと演劇は筋書き通りに行われるという点で基本的にすべて八百長だとも言える。歴史の面白いのは八百長がなく全てが真剣勝負だから、かも知れない。

2019年1月22日火曜日

年賀状


年賀状の整理を終えた。手元にある住所録の連絡先に変化がないかを確認するのが第一の目的だ。

住所録には年賀状に関して、出してそして来た、出したが来たのは遅かった、出したけど来なかった、出さなかったが来た、出さないし来なかった、喪中欠礼の知らせが来た、を十八年前から記録してある。出したけど来なかった、が二年続く人がたまにいる。今年も一人そういう人がいた。住所が違っていたなら葉書が返ってくるはずだ。その人の身に何か大きな変化があったのではと気にかかる。

年賀状の整理をしながら、その存在意義について考えた。ここ数年間一度も会った事のない人から「旧年中はいろいろお世話になりました」などと書いてあるとちょっと複雑な気持ちになる。年賀状とはお世話になったお礼として出すものなのだろうか。それもあろうがそれ以上に、しばらく会ってないけどいつかどこかで会ったらよろしくね、という思いを込めて、当方の連絡先や近況を知らせるのが目的なのだと理解している。だから何よりもまず連絡先を書くのが大切だと思う。

連絡先と言えばまず住所だろう。明治に郵便制度が始まってから五十年前まではこれが唯一の連絡方法だった。五十年前頃から電話が一般に普及し、最近はインターネットのメールや携帯電話も一般化した。そうした連絡先を書くべきだと思うのだが、今でも住所しか書いてない人がいるのは残念だ。
そして連絡方法がこれだけ多様化したのだから、年賀状も葉書という形態に拘る必要はないと思うのだが、この考えはまだ一般化していないようだ。もっと言えば年賀状が来ないというのも一種のメッセージだとも言える。もう会う可能性はないよね、というメッセージ。それは本人の意思かもしれないし、天に召した神の意思かもしれないし。

2019年1月15日火曜日

正月

年末から年明けにかけて関東地方では良い天気が続いている。時々風が強かったり、寒い日もあるが、雨の日は一度もなく、降雨ゼロの日数の記録を更新する勢いらしい。私の六十数回の正月の中で今年は最も穏やかな年の一つに数えて良さそうだ。
振り返って過去の正月を思うと、一番辛かったのは社会人になって二・三年目、年末に自然気胸を患い、入院中に迎えた正月だった。発症したのは確か十二月の二十三日前後だったと思う。朝、独身寮から外に出て冷たい外気を吸ったとたんに胸を襲った激痛を忘れる事は出来ない。病院に行って「肺に穴が開いている」と言われた時の驚きは大変なものだった。ああ、短い人生が終わるのかと覚悟を決めた。医師は即入院を勧めたが、上司の配慮で身寄りのない勤務地の大阪で入院するより島根に帰ったらどうか、と帰郷を許された。
出雲に帰って、馴染みの医者に診てもらい、肺が破れたとは言え左程重篤な病気ではないらしい事を知って一安心した。松江の病院を紹介してもらい、入院する事になった訳だが、病状もだいぶ良くなり、正月三箇日は家に帰る事を許された。配慮に感謝したが、今から思えば病院も正月休みで人手が手薄になるし、症状の軽い患者はいない方が好都合だったのだろう。
それを思い出して何故かカルロス・ゴーン氏の事を思った。検察は正月も休みなしに捜査や尋問を行うのだろうか。検察官だって人間なら正月気分を味わいたいだろう。もし彼らが雑煮やお屠蘇で団欒しているのに、ゴーン氏だけが獄舎につながれているとしたら、自業自得とは言え何か可哀そうになってしまう。
三箇日が過ぎて病院に戻った私はやたら眠りこけた事を覚えている。たった三日の娑婆だったが入院中の身にはそれ程の喧噪だったのだ。

2019年1月8日火曜日

IWC

明けましておめでとうございます。今年も当新聞・当コラムをご愛顧の程宜しくお願い申し上げます。
年末日本がIWCを脱退するというニュースがあった。私は「よくやった!」と喝さいを上げた。「阿刀田高のサミング・アップ」という新潮文庫の中の「作家の眼・国際捕鯨会議に出席して」を読んでそのひどい実態を知ったからである。シーシェパードなどという団体への嫌悪もある。
アメリカもかつて捕鯨国だった。そもそもペリーが開国を迫ったのも捕鯨船の燃料と食料の補給が目的だった。彼等と日本の違いは、日本が鯨の肉も油も全てを利用するのに対し、彼等は油だけが目的で肉は捨てていた事だ。全てを利用しようとする国と、一部のみの利用で他の大部分を捨ててしまう国とどちらが資源を大切にするだろうか。化学の進歩により鯨油が不要になると彼等は反捕鯨に転じた。この経緯はアメリカ大陸に生存したバイソンを想起させる。ネイティブアメリカンは肉・皮など全てを利用したのに対し、後からやってきた白人は毛皮だけが目的で乱獲し、バイソンは絶滅の危惧に瀕した。その悪夢が彼等の頭にあるのならこう言ってあげよう。日本人は欲に目がくらんで大事な資源を絶滅させ自分の首を絞めるような馬鹿ではない、と。
日本が鯨の種類別の繁殖能力も考慮に入れた捕鯨計画を作成しても、鯨の種類すら知らないような小さな国が、まともに議論にも応じず、挙句の果てには飛行機が間に合わないからと出席もせずに委任状を送って反対に回る、などという事も行われているらしい。
阿刀田氏の文章は三十年も前の話で、団体名も今はIWC(国際捕鯨委員会)となっているので、もしかしたら事態は改善しているかも知れない。もしそうなら是非実態を報じて欲しいものだ。