2019年1月22日火曜日

年賀状


年賀状の整理を終えた。手元にある住所録の連絡先に変化がないかを確認するのが第一の目的だ。

住所録には年賀状に関して、出してそして来た、出したが来たのは遅かった、出したけど来なかった、出さなかったが来た、出さないし来なかった、喪中欠礼の知らせが来た、を十八年前から記録してある。出したけど来なかった、が二年続く人がたまにいる。今年も一人そういう人がいた。住所が違っていたなら葉書が返ってくるはずだ。その人の身に何か大きな変化があったのではと気にかかる。

年賀状の整理をしながら、その存在意義について考えた。ここ数年間一度も会った事のない人から「旧年中はいろいろお世話になりました」などと書いてあるとちょっと複雑な気持ちになる。年賀状とはお世話になったお礼として出すものなのだろうか。それもあろうがそれ以上に、しばらく会ってないけどいつかどこかで会ったらよろしくね、という思いを込めて、当方の連絡先や近況を知らせるのが目的なのだと理解している。だから何よりもまず連絡先を書くのが大切だと思う。

連絡先と言えばまず住所だろう。明治に郵便制度が始まってから五十年前まではこれが唯一の連絡方法だった。五十年前頃から電話が一般に普及し、最近はインターネットのメールや携帯電話も一般化した。そうした連絡先を書くべきだと思うのだが、今でも住所しか書いてない人がいるのは残念だ。
そして連絡方法がこれだけ多様化したのだから、年賀状も葉書という形態に拘る必要はないと思うのだが、この考えはまだ一般化していないようだ。もっと言えば年賀状が来ないというのも一種のメッセージだとも言える。もう会う可能性はないよね、というメッセージ。それは本人の意思かもしれないし、天に召した神の意思かもしれないし。

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