立夏が過ぎて今日五月二十一日は二十四節気の小満にあたる。広辞苑には「草木が周囲に満ち始める意」とあり、確かに周りに緑が溢れてきた。四月初めに大勢の人で賑わった桜並木は青葉が陽光を反射している。テニスコート脇の木は、去年の今頃丸裸に刈り取られ大丈夫かと心配したが、今では全体が葉で覆われた。
二十四節気をさらに細分化した七十二候を見ると立夏から小満にかけては「蛙始鳴(蛙が鳴き始める)」「蚯蚓出(ミミズが地上に這い出る)」「竹笋生(タケノコが生えてくる)」「蚕起食桑(蚕が桑を盛んに食べ始める)」「紅花栄(紅花が盛んに咲く)「麦秋至(麦が熟し麦秋となる)」がある。散歩道にはポピーの赤い花が咲き、麦畑の豊かな実りを見ると改めて自然は正直だなあと感心する。温暖化の危機が叫ばれるがまだまだ七十二候が狂うまでには至ってないようだ。
七十二候は中国で紀元前三世紀ごろ完備したという。日本もこれを輸入し、しかし気候が必ずしも一致せず、動物植物にも多少の違いがあるため日本独自の本朝七十二候が江戸時代に作られたらしい。例えば本場中国の「王瓜生(カラスウリの実が生り始める)」を日本は「竹笋生」としている。
自然には感心もさせられるし不思議にも思う事がある。花の散り方も不思議の一つ。桜は見事なまでに潔い散り方をするが、クチナシの花は白い花が茶色になっても散らずに頑張るそうだ。バラだって末期の姿を見ると心が痛む。それぞれに事情や言い分があって、合理的で最適な道を選んでの結果なのだろう。桜は別に人間に散り際の美学を教えようとしている訳ではなかろうし。花の一番の使命である受粉と関係あるのだろうが良く解らない。子供の頃こんな疑問を持てばもっと生物を勉強したのになあ。
0 件のコメント:
コメントを投稿