2019年8月20日火曜日

表現の不自由


愛知トリエンナーレ「表現の不自由」展を巡っての一連の報道はいろんな事を考えさせてくれた。表現の自由と公権力による検閲の関係、税金と文化事業の関連、自由と責任の関係、等々。

所謂リベラルを自認する人達は名古屋市長の対応に批判的で、中には憲法を勉強し直すべきだなどとの暴言も出たが、却ってそれは彼等の浅薄さを思わせた。個人的に河村市長にシンパシーを感じているからかも知れない。河村市長の「民間企業が良い製品・サービスをいかに安く提供するかに腐心しているように、政治はいかに税金を安くするか努力すべきだ」という主張は本当にその通りだと思う。そういう真っ当な事を言う人がいないのは政治が税金を食い物にしている人達の利益を代表しているからとしか思えない。

今回の展覧会も税金が一つのキーワードではないか。従軍慰安婦を思わせる少女像や、誰が見ても昭和天皇のものと思われる顔写真を燃やして脚で踏みつけるような映像など、もしそれをある個人乃至私的団体が自分の資金と責任において展示するというのならその自由を誰も束縛する事は出来ないだろう。展示するのも自由だし、そういうあまり愉快ではない作品を見ないのも自由だ。(小学生に無理矢理見せたりして、いわゆる見ない自由もない国もある。)だが、今回は税金の補助を受け主催は愛知県だ。主催者である納税者がこんな展示はしたくないと言えば、中止するのも自由ではないか。中止「させる」のは検閲に当たろうが、中止「する」のは自由なはず。
表現の自由が許される範囲は表現者が責任を取れる範囲でと思う。あの展覧会をプロヂューサーが自己責任で主催するというのならどうぞご自由に、資金も会場も自分の手配で。責任に裏打ちされない自由は無銭飲食に等しいと思う。

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