2020年4月28日火曜日

収束か終息か

今回のコロナ騒動はいつになったら収束するのだろうか。そもそもどういう状態になったら収束したと言えるのか。いやいや収束か終息か。
広辞苑によれば収束は「おさまりがつく事。数列がある一つの有限確定の値に近づく事」、終息は「事が終わっておさまる事」とのことである。内乱がおさまるのを終息というように、完全に片が付いて終息するのが一番だが、当面はある数値が一定の値に収斂するのを目標とするしかなさそうだ。
では何の数値がどんな値に収斂すれば良いのか。過去何度も「ここ二週間が山場だ」という言葉が繰り返されてきた。それは「ここ二週間頑張ればある数値(例えば新規感染者数)が一定の値に収斂して落ち着く」という意味だと解釈してきた。しかし事態は一向に落ち着く気配がない。山場だと思っていたが山場ではなかったのか、それとも対策に誤りがあったのか、何か見込み違いがあったのか、反省とフィードバックがあって然るべきだ。
五月六日を期限とする緊急事態宣言も恐らくは延長される事だろう。そもそも宣言を延長するか解除するかの判断基準が示されないのは当局の自信のなさの表れに見える。実効再生産数が一以下になれば宣言を解除するとか、死亡者数が何人以上になったらより強い制限をお願いする事になるとか、事態を掌握しているのなら適切な指標とその数値目標が示されても良いはずだ。
ニューヨークでは住民の抗体検査で14%の人に感染歴がある事が分かった。慶応病院の無症状の患者からも6%の感染が分かった。すでに10%程度の人が感染していると覚悟すべきではないか。ならば相当数の感染者がいる前提で対処すべきで、毎日の新規感染確認者数を指標に一喜一憂するのでは事態は収束しないのではなだろうか。

2020年4月21日火曜日

給付金

私の住む埼玉県幸手市の正福寺には義賑窮餓之碑という石碑が立っている。天明三年浅間山の大噴火によって関東平野に火山灰が厚く降り積もり大飢饉が発生した際、幸手宿の豪商21人が金銭・穀物を出し合い、幸手の民を助けたという善行を顕彰して建てられたものだ。天明三年は西暦では一七八三年、同じ年にアイスランドのラキ火山も大噴火し、ヨーロッパでも農業が大打撃を受け、それがフランス革命の遠因となったという説もある。幸手では富裕層が貧民を助けたが、パリのベルサイユではどこ吹く風の贅沢三昧が続けられていたという訳だ。
そして令和、ウィルスによる経済の混乱期に私財を投じようという富裕層はいないのか。それどころか国が困窮対策として支給しようという十万円を、生活に不安のないお金持ちまで受け取るのではないかと心配されている。十万円と言えば我々庶民には大金だが、一晩の飲み代にもならないという人もいるだろう。その人の経済状態に応じて十万円の価値は大きく違う。だから支給方法に工夫を凝らし、本当に十万円を有難いと思える人だけに配布する方法はないものか。
例えば、公園や学校の庭の草取りを一時間やった人にだけ十万円を渡す、というのはどうだろう。草取りではなく、道路わきの溝掃除でも良い。とにかくお金持ちが「そこまでして十万円欲しくない」と思うような何かをする事を支給の条件とするのだ。
本来ボランティアでやるような神聖な作業をお金で汚すようにも思えるし、市民に労役を課すのは憲法上問題もあるのかも知れないが、街の美化にもつながる良い案ではないかと思う。中には作業をしたふりをしてサボる人も出るかも知れないが、一時間サボるのも結構辛い事なので、まあそれは大目に見る事にしよう。

2020年4月14日火曜日

正しく恐れる

ついに島根にも新型コロナウィルスの感染者が確認された。ずうっと感染者ゼロが続き、出雲の神様が守って下さるのだ、と周りの人に自慢していたのに。もっとも日々発表される感染者とは正確には感染確認者と言うべきで、感染はしていても無症状の保菌者は恐らく発表される人数の何倍もいるのだろう。だからこそ感染経路の不明な人が沢山でるのもやむを得ないのだと思う。
しかし真に恐れるべきは感染する事より重篤化して死亡したり後遺症が残ったりする事だろう。国内の死亡者数は四月十日現在で百三十一名(読売新聞)。最初の死者が出た二月中旬から約二か月でこの数字だ。厚生労働省の人口動態調査のデータを見ると去年一月から十一月までの間にインフルエンザで死亡した人は三千三百人いる。単純平均で月三百人、冬の間は平均値以上の数の人が亡くなったはずが、それと比較して死亡者がうんと少なく見えるのは母数の関係か。今は少なくて済んでいるが、油断をするなという事か。
そもそも死因がインフルエンザだとはどういう状況か。インフルエンザが元で肺炎を発症し死に至った、というケースなら分かる。その場合は死因が肺炎に分類されているはずだ。他の要因がなくて、単にインフルエンザだけが主要な要因で死ぬというケースがあるのだろうか。エボラ出血熱やペストなら全く健康な人がそれだけの理由で亡くなるのも容易に想像できるのだが。ちなみに肺炎で亡くなった方は前データによると八万七千人、月平均約八千人もいる。
正しく恐れろ、と言われる。勿論そうしたい。だが、数字だけを見ると経済や生活の犠牲とのバランスに疑問を感じる。中学の修学旅行も中止になりそうだと言う。修学旅行の想い出は古希になっても語り合えるものなのに。

2020年4月7日火曜日

不要不急


不要不急の外出を控えろと言われても、普段からどちらかと言えば出不精で、用もないのに家を出るなんてまずないので協力のしようがない。明日でも良いかどうかが不要不急の判断基準だそうだが、図書館へ本を返すのは一日くらい遅れても許されようが、一週間十日以内には必ずしないといけない。一週間程度先延ばしに出来るだけの事は今日やっても同じだろう。
流石に友人との飲み会はここ二か月皆無だし、先の予定も全くない。歓楽街が閑散とするのもむべなるかなだが、得意先の接待も不要不急と見なされたのだろうか。会社の売上を伸ばすための営業活動はサラリーマンにとって至上命題だったはずだが。
不要不急の活動を自粛したとたん経済がガタガタになったのを見ると、人間の活動がいかに不要不急のもので成り立っているかを思い知らされる。文化そのものが不要不急と言えば言えなくもない。野球やサッカーを見なくても生きていけるし、歌舞伎を見なくても生きていける。文明の発達によって、生きていくうえで必要不可欠な必需品が安く提供されるようになり、経済の多くの部分が不要不急のニーズによって支えられているようになった。それは人間がより自由になった事を意味し、本来喜ぶべき事のはずなのだが。
こんなご時世でも飲み歩く人は稀にいて、テレビカメラを向けられたその人は「禁止すると言ってくれれば出歩かないが、自粛じゃなあ」と答えていた。お上から禁止される事を望んでいるかの発言には驚くしかなかった。自分の行動は自分の責任において自分で決める、誰からもあれこれ指図されたくない、を信条とする私にとって「由らしむべし知らしむべからず」は遠い昔の冗談にしか思えない。行政には指示命令ではなく、正確で的確な情報公開を望む。

2020年4月4日土曜日

読売新聞の夕刊に紹介された幸手市の権現堂。桜と菜の花のデュエットは定番だが、散歩道で見た桜と麦畑のデュエットも中々いい。