2020年5月26日火曜日

専門家かプロか

新型コロナウィルス対策の出口戦略を求められて専門家会議の某委員は「経済のプロを交えた議論が必要だ」と言った。韓国野球界が無観客での開幕に踏み切った事に対し、慎重さが欲しかったと述べた元プロ野球選手の張本氏は「野球の専門家としてそう思います」と結んだ。専門家とプロ、どう違うのだろう。
英語で言えばスペシャリストとプロフェッショナルという事になろうか。英英辞典を引いたらプロフェッショナルは「普通の人が趣味でやるような事をしてお金を稼ぐ人」という定義があった。今の張本氏をして野球のプロと言うのにちょっとためらいがあるのは彼が野球をプレーして収入を得ている訳ではないからだろう。
お金を出してでも見たくなるような技を披露するのだからプロのやる事は凄い。テニスで絶体絶命の大ピンチから大逆転のスーパーショットを放ったり、将棋で誰も思いもつかないような妙手を放ったり、人を感動させる要素を持っている。外出自粛の日々、ユーチューブで藤井聡太七段の将棋を解説する動画を見て、何度も感動を味わった。AI超えとも言われる深い読みに。
コロナ対策について専門家会議の提言を見てこうした感動がないのは何故だろう。曰く「身体的距離を確保すべし」「マスクを着用すべし」等々、素人でも分かりそうな一般論ばかりだ。専門家なら「ウィルスのRNAを解析したら塩基配列がこうだから、こういう点に注意すべし」とか「重症化した患者の特徴を分析した結果こうだから云々」とか専門家にしか言えないような内容の忠告提言が出来ないものか。
スペシャリストを英英辞典で引くと「ある分野技術についてよく研究し、多くの事を知っている人」とある。専門家の発言に感動がないのはプロではないからなのだろうか。

2020年5月19日火曜日

模式図

専門家の言う事に疑義をはさむとは甚だ恐れ多い事だ。が、ある分野に於ける知識や経験の豊富さと情報を処理したり判断したりする能力とは別問題だと思うから敢えて疑問を述べる。
十五日の朝刊にも掲載された「今後の都道府県別の対応」というグラフは実に面妖だ。縦軸に「新規感染者数」横軸に「時間」が取られ、三本の直線と一本の曲線からなる。三本の直線の内二本は緩やかな右肩上がりに描かれ、一番上の線には「医療提供体制の限界」と注記されている。
はて、医療提供体制とはこのように緩やかに漸増的に拡大する事が可能なのだろうか。医療提供体制が具体的に何を意味するのか、おそらくは病院のベッド数、医療従事者の人数、人工呼吸器の数などだろうが、そのいずれもがそんなに簡単に増やす事が出来るとは思えない。敢えて図示するとすれば長い水平線が段階的に上がって行く形しかないのでは。漸増的拡大は単なる希望的観測か。
もっと面妖なのは、この限界と新規感染者数が比較の対象となっている事だ。医療体制が限界にあるかどうかを規定するのは患者数しかなかろう。いわば感染者の累計(退院した人や軽症者を除く)であって新規感染者数では決してない。
尾身氏は説明に当たって盛んにこれがイメージ図模式図である事を強調していたが、いかに模式図とは言え論理的正鵠さを欠くのは当事者意識の欠如を思わせる。最前線で人の命を預かっていれば具体的な細かい所までが気になって、観念的な抽象論で満足している訳にはいくまい。大阪モデルが重症病床使用率という具体的な指標を示したのとの対比が印象的だった。
参謀本部の希望的観測や観念論と最前線の現実との齟齬が悲劇を生んだ先の大戦の不幸がまた脳裏をよぎった。

2020年5月12日火曜日

現状把握


東京都のデータで陽性率が計算できない、には呆れた。検体を採取した日と結果が判明した日に時差があるからだとか。本来全ての検体に識別番号を割り振って、それぞれに氏名、検体採取日時、採取した機関、検査日時、検査をした機関、結果判明日時などを全て記録しておくべきだ。ならばそこから検体採取日ベースの陽性率、結果判明日ベースの陽性率、自在に計算できるはずだ。
データ軽視、現状把握軽視に危惧を感じる。現状認識をおろそかにして精神論を振りかざし痛い目に遭った先の大戦の教訓を忘れたのか。「人との接触を八割減らせ」の号令は「贅沢は敵だ」の掛声に似ている。あの時も変な正義漢が出た。
緊急事態宣言の継続の理由の一つに「収束のスピードが思った程でないから」というのがあった。平たく言えば「ある方針でやった事の効果が思った程でないからその方針を継続する」という事だ。これを誰もおかしいと思わないのか。思った程効果がなかったのなら方針を変えて別の方法を試みるべきだろう。八割減は接触を二割に抑え、2.5×0.20.5の初等算術を元に精神論をぶっているだけのように見える。
国内の感染者数の実態を国会で質問され首相は答えに窮した。誰も知らないから無理もないが、不思議なのはどうしてそれを知ろうとしないのかだ。何か所かで一定数のランダムサンプリングを行ってPCR検査、抗原検査を実施すれば凡その感染実態が把握できるだろう。同時に抗体検査も行って、どの程度に免疫が広がっているかも分かればもっと現実的で効果的な対策が打てると思うのに。新規感染確認者数の減少は接触削減より、免疫獲得の方が効いているのかも知れないのだから。
戦時中贅沢は敵だった。今接触は敵だと言われている。早く接触は素敵だと大声で叫びたい。

2020年5月5日火曜日

感染予防


月が変わって五月、最初の日は午前中炬燵に入ってテレビを見ていたが、午後になって食パンとヨーグルトの補給にスーパーへ行ったら冷房が効いていた。一日の内に冬から夏になったかのよう。それでも植物は春を忘れていなかった。道端の草花は陽光を浴びて輝き、街路樹のハナミズキが目を楽しませてくれる。道端の草の中には矢車草も元気に咲いていた。植物はウィルスに感染しないのだろうか。
生物は苦手科目だったから以下は私の想像で間違っているかも知れないが、植物は外界から体内への入口が小さすぎてウィルスが入り込めないのではないか。植物は根から水を吸ったり、葉の表面から酸素を取り込んだりしている。無機物を体内で合成して有機物を作る能力を植物は持っているから、体内への通り道は小さな分子が通るだけの大きさがあれば良い。
一方我々動物は自ら有機物を合成する能力を持っていないから、生きるためには他の生物が造り出した有機物を強奪するしかない。だから体内への入口がアミノ酸やウィルスなど高分子の有機物が通れるだけの大きさがないと生きていけないのだ。ウィルスは他者からの略奪と言う生存戦略を選んだ動物への罰なのかも知れない。
細菌と違ってウィルスは細胞内に入らない限り増殖できないのだから、体内に取り込まなければ感染はしないはずだ。体内への入口とは粘膜や傷口だ。ウィルスが浮遊する環境に身を置いたとしても、それを吸い込んだり、ウィルスが付着した手で目をこすったり鼻をほじったりしなければ感染はしないだろう。
ともかく感染予防として大切なのは人と接触しない事よりもウィルスを体内に入れない瀬戸際対策だ。食事にももっと注意すべきだろう。その観点から防疫と経済を両立させる新しい生活様式がないものか。