2020年10月27日火曜日

カスハラ

 セクハラに始まってパワハラ、アカハラ、マタハラなど色んなハラスメントが出てきたが今度はカスハラだそうだ。カスと言えば粕が真っ先に脳裏をよぎるがカスタマーの事らしい。客ハラとでも言った方が分かりやすくて言葉として上等だと思うのだが。セクやパワは日本語にそういう音の言葉ないから良いが、アカは赤、マタは又などがあるから、学ハラ妊ハラとでも言った方が良いのではないか。

それはさておき、店員に対して客の立場を笠に着て無理難題を吹っかけている人を見る事がたまにある。それを苦にして自殺した店員が十年間で35人もいるという。そもそもお金の流れが人の権利関係を決めるというのはどういう事か。「お客様は神様です」というセリフは国民的人気を持つ大歌手が言って初めてサマになるのであって、一般庶民の言う事ではない。物の売買とは商品と貨幣の交換に過ぎず、ある商品に対し百円の価値があると認めた人が、百円とそれを交換するというだけで、買った人も百円の替わりに価値ある商品を手にしたのだから双方に上下関係はないはずだ。本来なら売る側にも「あなたには売りたくありません」という権利があってもいい。

こうした事態を避けるために厚生労働省ではマニュアル作成のため1700万円の予算を計上しているとか。威張り散らす客も客だが、それにマニュアルで対応する側もする側だ。世の中がこうギスギスしているのは教育に根本の問題があるのではないか。徳とか人格とかが教育から忘れ去られてはいないか。知識偏重の教育は料理で言えば塩と砂糖と醤油だけで味付けたようなもので、所謂コクがない。ダシが効いていないのだ。意味も分からず論語を素読するような、そういった地道な教育がダシを効かせるのではないだろうか。

2020年10月20日火曜日

衰え

 友人の奥さんの訃報が立て続けに届いた。気付いたら私自身が母の享年を越える歳になってしまっているから、むしろ自然な流れなのだろう。嫌でも肉体精神の衰えが進む。

最初に肉体的衰えを感じたのは四十代の頃だった。息子と一緒に小学校の校庭で父兄を交えたサッカーをやった時だ。相手のゴール前に攻め込んで、味方からセンタリングされた絶好のボールめがけて走り込み右足のインサイドキックで見事ゴールを決めた、筈だったがボールは目の前2メートル位先を通り過ぎて行った。自分が頭の中でイメージしている動きに体がついていかないのを実感した最初の経験だった。

最近は脳や感覚器官の衰えを感じる。先日ある本を読んでいたら「同じ円弧に対する円周角は等しい、なんて美しい定理ですよね」という記述があって、それを証明してみようと思った。ところがこれが簡単に出来ない。なんと色々考えて一晩も掛かってしまった。中学生の頃ならお茶の子さいさいで出来たのに。

耳も悪くなっているのだろうか、日本映画のセリフが聴き取れなくて困る。古い映画なら録音技術の問題もあるかと思うが、最近の映画でもボソボソとつぶやかれると何を言っているのか分からない。ボリュームを上げると、音楽や効果音がやたら大きくてこちらは鼓膜が破れそうだ。日本映画にこそ字幕を付けてくれないだろうかと思っている。

悪あがきかも知れないが衰えを先延ばしする努力はしている積りだ。出来るだけ車に頼らず歩くようにしたり、詰将棋、詰碁を毎日数題こなしたり、ピアノを弾いて脳に刺激を与えたり。そして何よりお酒を控える。最近お酒の量が減ったのは友人と談笑しながら時間を忘れてのお酒がなくなったからだろうか。これだけはコロナのお陰と言うべきか。

2020年10月13日火曜日

学術会議

 

十月になって辺りには金木犀の甘い香りが満ちている。更に今年は夏が暑かったせいか百日紅が未だに花をつけている。美しい自然に中で人間世界はどうか。日本学術会議を巡っては右と左が大騒動。事は会員任命の問題から団体の存在価値そのものを問うまでになってきた。反対意見に謙虚に耳を傾けるべきは、学術会議とて同じはずだ。

北海道大学のある研究が軍事研究禁止の名目で槍玉に上がったらしい。「微細な泡で船底を覆い船の航行の抵抗を減らす研究」がどう軍事目的につながるのかよく分からないが、裏に醜い人間関係が透けて見えるのは私だけだろうか。こうした一刀両断の専制的とも思える対応は却って学問の自由を阻害するのではと思える。研究そのものでなくその悪用が制限されるべきだ、と言う意見もある。今世界の人々がその恩恵に浴しているインターネットだって米国国防総省の軍事利用のための先端技術の研究開発から生まれたARPANETが基になっている。

会に投じられる10億円の予算の多寡も議論の対象となっている。個人的には民主党政権下で事業仕分けの対象にならなかったのが不思議なくらいだが、そのお金は若い学者達には降りてこないらしい。ある委員会で働いた経験のある若い学者の投稿によると、「学術会議名義で莫大といってよい量の仕事も完全にタダ働きで貢献してきました。」と。その人は学術会議の事を「大学を定年退職した高齢者が、名誉職でやって来る老人会」だと言っている。

右だろうが左だろうが既得権益の上に胡坐をかいて甘い汁を吸いながら威張っている奴は嫌いだという私の持論からすると「10億円の国家予算は、すでに大学に職を得ている教授ではなく、学問的成果を上げたポスドクに支給すべきだ。」という提案に魅力を感じる。

2020年10月6日火曜日

反対意見

 日本学術会議の新会員候補の内六名が菅首相から任命を拒否された。中には私の好きな加藤陽子教授も含まれている。六名はかつて政府の提出した法案への反対意見を述べたそうで、それが原因ではないかと言われている。

今度のオリンピックの標語「感動で私たちは一つになる」もそうだが、日本人は反対を嫌い何でも一つになる事を好む。全員が同じ、と言うと何だかナチスの党大会の様子を思い浮かべてどうも気持ち悪い。そういえば全員同じは悪い事だと考える人達がいた筈だ。確かユダヤ人だったか。そうだ、イザヤ・ベンダサン著「日本人とユダヤ人」だ。その第六章「全員一致の審決は無効」に詳しく述べられている。「その決定が正しいなら反対者がいるはずで、全員一致は偏見か興奮の結果、または外部からの圧力以外にはあり得ないから、その決定は無効」と。少数の反対意見は正しさを補強すると言う考えで、政府はむしろ反対意見を歓迎し、それに謙虚に耳を傾ける度量を示して欲しい。

全員が一つにならないといけない時があるとすれば外敵と戦っている時だろう。感染症との戦いとか戦争とか。その時は内部の意見対立はあっても少なくとも外向けには全員一丸となって事に当たるべきだ。アメリカの女優ジェーン・フォンダはベトナム戦争の最中ハノイへ行ってアメリカ軍機を撃墜するために設けられた高射砲に座り、北ベトナム軍のヘルメットを被ってポーズをとったそうだが、どうしてもそうしたいなら国籍を北ベトナムに移してからにすべきだった。戦争反対を叫ぶのと敵方を鼓舞するのとでは訳が違う。

さて今の日本、誰かどこかと戦っている状態なのだろうか。反対意見もあり、嗜好も多様である事が平和を享受する醍醐味ではないか。何も一つである必要はない。