2020年12月29日火曜日

この一年

 

コロナに翻弄された一年だった。

二月の中頃は「この二週間が山場だ」と言われた。あれは一体何だったのだろう。最近また「勝負の三週間」と言われて、実は勝負でも何でもなかった。四月には都知事が「自粛疲れはまだ早い」と発言したが、確かに年末になってもまだ自粛要請が続いている。あの頃と明らかに違うのは最近「収束」という言葉を殆ど聞かなくなった事だ。もう収束は諦めてしまったのか。

笑えると言ったら不謹慎だろうか、ちょっと首を傾げたくなるニュースもあった。マスクをしてジョギングする人、息苦しいので通気性の良いマスク着用とか。通気性が良かったらマスクの意味がないのではないか。給付金の申請にあたっては混雑を避けるためオンライン申請を推奨したが、役所の窓口が大混雑。確かマイナンバーカードの関係だった。給付金は一人10万円か一世帯30万円かの議論もあった。テレビの某キャスターは「打てるべき手をすぐ打つ事が大事」と発言した。打てるべき手?そんな日本語あったかな。「打てる手」と「打つべき手」の両方やれ!という事を一度に言ったのだろうか。何と凄い省力化表現か。

家にいる時間が長くなり、読書や映画鑑賞で過ごす時間が増えた。今年一番の本と言えば「陰謀の日本中世史」呉座勇一著を挙げたい。保元の乱から始まって、平治の乱、義経の悲劇、足利尊氏の策略、応仁の乱の日野富子、本能寺の変、石田三成と徳川家康との確執など、いろいろ面白可笑しく語られる陰謀や裏話だが、実は極く普通の人間がやった事だと語る。勝負というものは双方が多くの過ちを犯し、より過ちが少ない方が勝利するのだとする歴史のプロとしての検証には説得力があった。

では、皆様良い年をお迎え下さい。来年こそコロナが収束しますように。

2020年12月22日火曜日

不要不急

 今年四月にも同じ表題で書いた。不要不急の外出を控えろ、不要不急の活動をするな、と言われ続けた一年だった。だがそれを言う政治家達は言葉だけで、あまり真剣にそうは感じていないようだ。

世論の反発が表面化するまで派閥の忘年会を予定していたり、それより何より来年度の予算編成にそれを感じる。来年度一般会計の歳出総額は過去最大の106兆円台半ばになるそうだ。このコロナ禍の中、一般会計は不要不急なものは後回しにして出来るだけ絞り、コロナ対策に備えようという気持ちはないのだろうか。

世の中全てがコロナシフトする中、予算だってコロナシフトして然るべきだろう。全ての予算案に対してコロナ対策とどちらが大切かの基準に照らして、コロナ対策に関係のない費用については一律二割削減を目指せ、くらいの号令が掛かってもおかしくないと思うのにそうした形跡は全く見られない。

106兆円の中味を精査する時間も能力もないが、テレビや新聞の報道を見ると公立小学校の一学級あたりの児童数を40人から35人に引き下げるのが目玉の一つらしい。確かに小学校の先生も大変だろうが、コロナ病棟で悪戦苦闘する看護師さん達はもっと大変だ。不要不急とは言わないまでもコロナが過ぎ去るまで待てないものか。

民間経済が大変な時は財政出動によって経済を回すのはケインズ経済学の説くところだが、しかしそれでも一定の財政規律は必要だと思う。危機に備えるためにも民間経済が元気な時は財政は緊縮すべきはず。だがバブル期には大人しくして借金返済に励むべき財政が民間と一緒に浮かれて豪華な庁舎の建設に走った。こんな事で本当に大丈夫なのだろうか。

MMT(現代貨幣理論)などという無責任な学説に惑わされてはいけないと思う。

2020年12月15日火曜日

不便な便利さ

 便利さを追求するのは良いが中途半端に終わるとかえって不便になってしまう、そんな事を強く感じている。

最近買った新車に込められた様々な機能が便利なようで不便なのである。まずはスマートキーと呼ばれる仕組み。車を動かすカギを身に付けてさえいれば取り出さなくてもドアを開けたりエンジンを駆動させる事が出来る。当初はとても便利なものに思えたがいざ使い始めるといろいろ不都合を感じる。ポケットや鞄からカギをいちいち出さなくても良いのでついその存在を忘れてしまう。すると帰った時所定の場所に返すのを忘れ、次に車を使う人がカギを探し回る羽目に陥る。自分専用の車ならそれで良かろうが、家族でシェアする前提なら合鍵を作って自分専用に持っている方が却って便利だ。もう一歩踏み込んで、指紋など生体認証で操作が出来るようになれば良いが。

新車を買うのは十三年ぶりだが、その間に車は賢くなって色々教えてくれる。その日初めて車を運転する時には「今日は何月何日です。」と教えてくれたり、家に着いたら「お疲れ様でした。」と慰労してくれたりする。ちゃんと言葉がしゃべれるようだから、色んな警告も言葉でお願いしたいものだ。ある日信号待ちをしていたら「ピッ!」と強い警報音が鳴った。一体何事かと周りを調べたが異常が見当たらない。何の事はない、前の車が発進したのを教えてくれたのだ。怒ったような警報でなくやさしく言葉で教えて欲しかった。

狭い場所で駐車しようとする時も何かにぶつかりそうになると「ピピピ」と注意してくれる。だが、それが左の前なのか右の後ろなのか、どこが危ないのか分からない。どうして言葉で教えてくれないのか。

良く売れている大衆車でユーザーの意見も多数寄せられているはずなのに残念だ。

2020年12月8日火曜日

囚人のジレンマ

 

前回「徳目」を書きながら思った事なのだが、そういう徳を奨励し、それに沿った行動を取るよう教育する意味はどこにあるのだろうか。番組の出席者の一人は「自分勝手なずるい人が得をし、正直者が馬鹿を見るような社会はいけない」との発言をしていたが、何か違うような気がした。

その時脳裏をよぎったのが「囚人のジレンマ」という言葉だった。ゲームの理論における用語で、ウィキペディアによれば「お互い協力する方が協力しないよりもよい結果になることが分かっていても、協力しない者が利益を得る状況では互いに協力しなくなる、というジレンマである」とある。詳細はここでは割愛するが、要するにお互いが相手を信頼し信用する事が互いの大きな利得になるという点が重要だ。構成員に徳目の実践を要求するのは社会全体がこの囚人のジレンマに陥らないようにするためだ、と思う。

自分さえ良ければそれでいい、という人が相手を騙してまでも自分の利益だけを追求したら、近視眼的には得したようでも最終的にはその人にとっても利益にはつながらない。交通ルールが一番身近な例だろう。信号を無視して自分勝手な運転をすれば最後には大きな代償を払う羽目になる。

近代化が遅れて貧困に悩む発展途上国の実情を見ると、まさに囚人のジレンマに陥っているような気がする。全てそうだとは思いたくないが、国のリーダーが私腹を肥やし国民を顧みないような国は、いくら地下資源が豊富でもいつまでたっても貧困から抜け出せない。互いの信頼がなければそもそも交易すら成立しないではないか。

日本が明治維新を成し遂げたのは、それまでに培った民意の高さゆえに囚人のジレンマに陥る事がなかったからに違いない。徳目教育は精神のインフラ整備だと思う。

2020年12月1日火曜日

徳目

 先日ある民放のテレビを見ていたら、教育勅語の復活を訴える識者がいた。勿論、教育勅語を昔のままの形で、天皇の勅語として復活するという訳ではなく、勅語が重要だと訴えている十二の徳目を再度しっかり小学生に教えるべきだ、という説である。

改めてその十二の徳目を確認すると、父母への孝行、兄弟の友愛、夫婦の和、朋友の信、謙遜、博愛、修学習業、知能啓発、徳器成就、公益世務、遵法、義勇、でいずれも立派で大切な事だ。番組では教育勅語が発令された背景として明治維新による国民意識の変化を挙げていた。江戸時代は日本人が普通に当たり前のように持っていたこうした徳目が、西洋文明の流入によっていくらか疎かになりつつあったので、警告の意味を含めてそれらの重要性を再認識させる必要があったのだ、と。そして今、当時と同じ状況になっているというのだ。

ここに掲げられた十二の徳目を改めて見てハッと気付いた事があった。子供を慈しめという項目がないのだ。そもそも尊重すべき徳目を列記するのはそれがなかなか守られないからだろう。親不孝な子がいたり、兄弟喧嘩が絶えなかったり、友人を裏切る輩がいたり、そういう事例が沢山見られたからこそ、あの十二の徳目が強調された。江戸時代にも明治時代にも、まさか我が子を虐待して死に至らしめたり、食事を欲しがる子を放ったらかして遊び呆けたり、乳飲み子を残して自分勝手に自殺したりするような親が現れようとは思いも至らなかったのだ。貧困から我が娘を花柳界に売り飛ばすような親が歌舞伎や落語で出てくるのは確かにある。だが、その場合でも親は子を思い、胸が張り裂けんばかりの苦悶を感じている。

令和の教育勅語に子を慈しむを追加しなければいけないとしたら、悲しく恥ずかしい。