2020年12月8日火曜日

囚人のジレンマ

 

前回「徳目」を書きながら思った事なのだが、そういう徳を奨励し、それに沿った行動を取るよう教育する意味はどこにあるのだろうか。番組の出席者の一人は「自分勝手なずるい人が得をし、正直者が馬鹿を見るような社会はいけない」との発言をしていたが、何か違うような気がした。

その時脳裏をよぎったのが「囚人のジレンマ」という言葉だった。ゲームの理論における用語で、ウィキペディアによれば「お互い協力する方が協力しないよりもよい結果になることが分かっていても、協力しない者が利益を得る状況では互いに協力しなくなる、というジレンマである」とある。詳細はここでは割愛するが、要するにお互いが相手を信頼し信用する事が互いの大きな利得になるという点が重要だ。構成員に徳目の実践を要求するのは社会全体がこの囚人のジレンマに陥らないようにするためだ、と思う。

自分さえ良ければそれでいい、という人が相手を騙してまでも自分の利益だけを追求したら、近視眼的には得したようでも最終的にはその人にとっても利益にはつながらない。交通ルールが一番身近な例だろう。信号を無視して自分勝手な運転をすれば最後には大きな代償を払う羽目になる。

近代化が遅れて貧困に悩む発展途上国の実情を見ると、まさに囚人のジレンマに陥っているような気がする。全てそうだとは思いたくないが、国のリーダーが私腹を肥やし国民を顧みないような国は、いくら地下資源が豊富でもいつまでたっても貧困から抜け出せない。互いの信頼がなければそもそも交易すら成立しないではないか。

日本が明治維新を成し遂げたのは、それまでに培った民意の高さゆえに囚人のジレンマに陥る事がなかったからに違いない。徳目教育は精神のインフラ整備だと思う。

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