2022年2月22日火曜日

ミュンヘン

 18日、ドイツのミュンヘンで各国の安全保障を議論する国際シンポジウムが開幕した。ミュンヘンでの会議と言うとどうしても第二次大戦前の英仏独伊の首脳による会議を思い出してしまう。

19389月に行われたその会議の主題はヒトラーによるチェコのズデーテン地方の割譲要求だった。当時ヒトラーは東方からの脅威を訴え、ズデーテン地方にドイツ系住民が沢山住んでいるという理由で併合を主張した。そして今、ロシアは西方からのNATOの脅威を訴え、ウクライナのルガンスク州やドネツク州にロシア系住民が沢山住んでいるという事実がある。偶然とは思えない類似性が恐ろしい。

前の会議の時にはドイツがそれ以上領土の拡大を求めない事を条件に英仏の首脳がヒトラーの要求を認め、戦争の危機が一時的に回避され、イギリスのチェンバレンは平和を守った英雄として国民に大歓迎されたが、その後の経緯は知っての通り、ヒトラーの領土的野心は留まるところを知らず結果として大惨事を招いた。今チェンバレンの遺骨はウェストミンスター寺院の一角に小さな墓碑と共に眠り、訪れる人は殆どいないらしい。対独強硬路線を主張したチャーチルは大人気だと言うのに。それを見て今の政治家がチェンバレンを反面教師にしないか心配だ。

チェンバレンにとっての不幸はヒトラーが想像以上のワルだった事だ。責められるべきはあくまでヒトラーであってチェンバレンではないはず。対外強硬路線を主張して国民を煽るより、平和への道を誠実に模索する事こそ本来政治家のなすべき事と思う。

ヒトラーが一定の理性を持っていて、ミュンヘン会議の合意が守られ、チェンバレンが平和を守った英雄として末永く敬愛を集めるような、そんな歴史になっていれば人類はどれだけ幸せだった事だろう。

2022年2月15日火曜日

終末時計

 ウクライナ発の第三次世界大戦が原因で人類は絶滅しました、なんて事になってもそれを記録する人は誰もいないし、記録する意味もないのだなあ。

核戦争などによって人類が絶滅するまでの時間が残りどれくらいあるのかを象徴的に表現した世界終末時計が今年も140秒に据え置かれた。この時計1947年に考案され、当初は残り7分とされたそうで、1991年のソ連崩壊の時に17分になったのが最長で、最近は2010年にオバマ大統領の核廃絶運動を理由に6分前まで伸びて以来短くなる一方だ。

140秒という数字にどんな意味があるのか知りたくなって調べてみた。基本的には当初の7分を基準にして、緊張が高まれば短く、緩和すれば長くというように相対的に見直され、数字そのものに特別具体的な意味はないようだ。そもそも当初の7分も考案者のラングズドーフにとって「見た目がよさそうだったから」という理由に過ぎないらしい。

ならば自分なりにその意味を探ってみようと思った。24時間を何と考えるか。色々考えられるが人類が滅亡するまでの時間だと言うのだから、人類が存在した全体の時間を24時間にするのが自然だ。人類の進化は猿人、原人、旧人を経て我らの祖先である新人が現れたのが20万年前だと言われている。20万年を24時間として140秒を評価すると231年になる。

いや待て。核戦争による絶滅という事は自らの知性がその原因なのだから、人類が知の蓄積を始めたのを起点にすべきではないか。文字の発明が約5000年前らしいのでそれを24時間としたら140秒は5.7年になる。ひょっとしてやはりウクライナ発なのか。

それにしても「人類滅亡」という超ウルトラスーパービッグな大ニュースが全く無価値だなんて、なんともまあ皮肉な事ではないか。

 

2022年2月8日火曜日

年齢

 石原慎太郎氏の死を告げるネット記事を見て首を傾げた。そこには石原四兄弟が一列に並んだ写真と共に、四人それぞれのコメントが掲載され、長男の伸晃氏のコメントは以下の通りだった。「(前略)父・石原慎太郎が本日の午前に急逝いたしました。89歳。数えで90歳であります。膵臓がんを(後略)」二月一日現在で満年齢と数え年が一つしか違わないという事は一月生まれだったのか、と同じく一月生まれの私は親近感を持った。

ところが調べてみると石原氏は昭和7930日生まれ、数えは91歳だ。自分の親の年を間違えるとは何たる親不孝。それとも伸晃氏は数え年の仕組みをよく理解しないで、単純に満年齢に1を加えたものだと思っていたのだろうか。日本文化を愛した父を想い敢えて数え年に言及したのなら、よく勉強してからにして欲しかった。

旧弊に思える数え年だが、満年齢より適切だと思うケースが去年の全米オープンテニスであった。新進気鋭の若手の女子選手二人が優勝を争っていた。アナウンサーによると一人は19歳、もう一人は18歳だと言う。そう聞けば片方が一歳年上で結構差があるように思えるが、実際には一方は9月生まれ、片方は同じ年の11月、二か月違いでしかなく大会当時誕生日が来ていたかどうかの違いしかないのだ。数え年で言えば二人とも20歳、そう言った方が二人の関係をより的確に表現しているではないか。

人の長幼を表す際には数え年の方が適していると思った。そう言えば学校の学年も数え年のシステムに似ている。満年齢は違っても同じ学年なら長幼の差はほぼないと考えられる。数え年は正月に一斉に年を取るが、学年の場合は四月に一斉に一つ上がる。数え年は言ってみれば人生何年生かを表す優れたシステムなのだ。

2022年2月1日火曜日

罰則

 これも正月のニュースで知った事だが、イギリスには現代奴隷法という法律があるそうだ。一定以上の規模を持つ企業に対して、その取引先を含めて奴隷労働や人身取引に関与する事を禁止するものだ。ニュースではある企業がその調達先が最低賃金を遥かに下回る時間単価で労働者を雇っていたとして非難を浴びている事を報じていた。そして、今は罰則はないが今後罰則を設ける方向にある、と。

人を奴隷のようにこき使うのは悪い事だからそれに関与した会社を罰するのは当然の事の様にも思えるが、何か違うような気がした。そもそも人が人を罰するのは慎重であるべきなので、どういう場合に罰しても良いかを刑法が規定している。そこに書いてない事は多少眉を顰めるような事でも無暗に人を罰してはいけないと考えるべきだ。最低賃金以下で労働者を雇ったというが、それは労使双方の合意の上ではないのか。もし無理矢理首に縄をつけて強制労働させたというなら、監禁罪、誘拐罪等に問えば済む。

大体、国が偉そうに民間の人や企業にああしろこうしろと指図するのが気に食わない。一番悪い事をしているのは国ではないか。刑法で一番重い罪は恐らく殺人だ。その殺人をやっているのが国なのだから。イスラエルはガザ地区の民間施設を空爆し、いたいけない幼児を何人も殺したし、アメリカは無人爆撃機でアフガニスタンの無辜の民を何人も殺した。それを罰しないでどうして民間企業が罰せられよう。

そのアメリカがウクライナでロシアと向い合っている。アメリカ式の民主主義を広めたいというのがアメリカの大義名分なのだろうが、それも善意の押売りの臭いがする。刑法130条には住居侵入罪が規定されている。よその国に軍隊を派遣する他国侵入は理由がどうあれ禁止すべきではないか。