2022年4月26日火曜日

ワクチン

 天然痘対策の種痘に始まって結核予防のBCGや幼児の時に受ける三種混合ワクチンなど、ワクチンは人類に多大な貢献をしてきた。それもあってか今度の新型コロナに対してもワクチンこそ最大の武器で、ワクチンさえ普及すればコロナに打ち勝てると言われてきた。ところがどうだろう、国民の大多数がワクチン接種を完了したというのにコロナ感染の勢いは衰えるどころか更に燃え広がっている。コロナワクチンは本当に効いているのか。そういう疑問はどこからも聞こえて来ず、専門家の中には4回目5回目の接種の必要性を説く人もいる。

ワクチンが本当に有効であるなら、その普及前と後とで明らかな違い、有意差がなければならない筈だ。最初に挙げた種痘などはそれがある。だが少なくとも感染者数に関してはワクチンの効果を示す有意差は認められない。そもそもワクチンは体内に免疫を作る事が目的で感染を予防するものではない、という事か。ならば重症化を予防している事に有意差があるというデータを示して欲しいものだ。

毎日発表される感染者の内、無症状が何割、発症した内、軽い症状で回復した人が何割、重症化したのが何割、というようなデータを示し、それらの値がワクチンの普及後で明らかに改善の傾向があるというのであれば納得するし、接種をためらう人の後押しする事にもなる。そういうデータが出てこないのはさほど効果がないからではないだろうか。ならばワクチン崇拝の見直しも必要だ。

今度のコロナ禍では感染症の専門家と言われる人達に大いに失望した。専門家というからには、現状を説明出来る、将来を予測出来る、対策を立案出来る、の三つが出来ないといけない。しかしそのどれも聞いた事がない。昨年末感染が下火になった時も何の合理的説明もなかったし。

2022年4月19日火曜日

大国の驕り

 A国の大統領がB国の大統領について「この男が権力の座にとどまってはならない」と言った。それに対してB国の大統領報道官が「B国の大統領はB国の国民が決める。A国が決めることではない。」と反論した。A国とB国、どちらの主張が民主的かと問われれば普通はB国の方だろうと思うが、実際はA国が民主的と言われるアメリカで、B国が強権主義と批難されるロシアなのだから訳が分からない。

アメリカは自国の国益のために他国のリーダーの首をすげ替える事を何とも思っていないようだ。キューバでは失敗したが、パナマのノリエガ将軍は自国の軍隊を投入して捕縛してしまった。まるで国内の犯罪を取り締まるかのように。ロッキード事件もアメリカから「あの男が権力の座にとどまってはならない」と思われて起きた事なのかも知れない。ロシアもノリエガ将軍の前例に倣おうとしたが、残念でした。

イギリスのジョンソン首相がキーウを視察した。一体何のために?かつて東日本大震災の時は菅首相が福島第一原発を視察したのがマスコミに叩かれた。懸命に事故対応に追われる現地スタッフの邪魔をするなというのだ。だが、政府の責任者として現地の実態を把握したいと思うのは当たり前だ。あの時菅降ろしの大合唱をしたマスコミが今度の何の役割もない視察をどうして黙認するのか。ゼレンスキー大統領は毎日寝る間もなく対応に追われている。その疲労度は福島原発の現地スタッフに決して劣らないだろう。他国首相にアテンドして被災地を案内する暇があったら、せめてその時間だけでもゆっくり休ませてあげたかった。来てやったとでも言わんばかりのジョンソン首相の振舞いに大国の傲りを感じるのは小国の妬みに過ぎないか。

2022年4月12日火曜日

ダブルスタンダード

NHKのドキュメンタリー番組「映像の世紀」の新しいシリーズが始まった。第一回は「モハメド・アリ 勇気の連鎖」と題してモハメド・アリの活躍がオバマ大統領の誕生につながったという内容だった。

アリは一番油が乗っている二十代後半ボクシング界から追放されていた。ベトナム戦争への徴兵を拒否したためだ。罪もないベトナム人を殺すのは嫌だ、という彼をアメリカ社会は許さなかった。今もし、ロシアの若者の誰かがウクライナで人を殺すのは嫌だと徴兵を拒否して、それを理由にロシア政府が彼を裁判にかけ刑を課したら、それでも世論はロシア政府を擁護しその若者を責めるのだろうか。

アメリカがベトナムで戦争を始めたのは共産主義の拡大を阻止するためだった。ロシアがウクライナで戦争を始めたのはNATOの拡大を阻止するのが一つの目的だ。ウクライナで民間人が多く殺害されたように、ベトナムでも多くの民間人が殺された。ウクライナの路上に残された遺体はおそらくロシア人の仕業と見て99%間違いないと思うが、それでもまだ確たる証拠がある訳ではない。ベトナム戦争ではアメリカ兵がすぐ横にいるベトナム人男性の頭部を銃で打ち抜く動画が出回った。戦争犯罪の動かぬ証拠があった訳だが、あのアメリカ兵は戦争犯罪で然るべき裁きを受けたのだろうか。

アメリカが始めたベトナム戦争をパリの秘密交渉を通じて終わらせたとしてキッシンジャーはノーベル平和賞を貰った。同時受賞を打診されたレ・ドクトはマッチポンプの平和賞はおかしいと受賞を辞退した。まるでロシアが始めた戦争をプーチン大統領がゼレンスキー大統領との直接交渉で終わらせた事に対して、プーチン大統領がノーベル平和賞を受け、ゼレンスキー大統領が辞退したかのような構図ではないか。

2022年4月5日火曜日

忠臣蔵

 アカデミー賞授賞式でのウィル・スミスの平手打ちを見て忠臣蔵を思い出した。嫌がらせを言ったりしたりする人が居て、それに耐えられなかった相手方が暴力で応える構図がそっくりだ。しかもどちらも晴れの舞台で起きた事で、その主催者と大衆世論を入れた四者の立場から事件を視ると色々な考察が出来そうだ。

まず、冗談はどこまで許されるかという問題がある。今度の事件でも司会者のクリス・ロックは軽い冗談で、彼自身の価値観では許される範囲だと思ったのだろう。相手が少しでも傷つくのはダメだとなると、ポリコレのような事になる。ポリティカル・コレクトネスの略で、ちょっとでも人が不愉快に思う言葉を排除しようという思想らしい。性同一性障害に悩む人に失礼だから、父や母、息子や娘、夫や妻、という言葉を使ってはいけないという運動にまで発展しているとか。流石にそれは行き過ぎと思う。

嫌がらせを受けた側の暴力の程度も問題だ。刀で切りつけるのはやり過ぎだとしても、軽く頭をチョンと小突くくらいならどうか。妻の容姿を侮辱された心の痛みと、平手打ちで受けた頬の痛みと、どちらが大きいかと言われれば前者の方がより後まで尾を引きそうだ。

いずれにしても事件が起きた場所の主催者は、その場を汚された事に怒るから暴力という形で表面化させた者を罰する。江戸幕府もそうしたし、映画芸術科学アカデミーもその方向で検討している。

世論で言えば、アメリカで賛否両論と言われるのに対し、忠臣蔵では吉良の擁護論が全くないのが不思議だ。そもそもあの事件はどうやって大衆の知る所になったのか。幕府だって城内の不祥事を公にはしたくなかったろう。もしロシアのクレムリンで何らかの刃傷沙汰が起きたとしたらそれが外に漏れる事はあるのだろうか。